White Day


「はい!大事な大事なお預かり物!」
 今日の撮影が終了したばかりのスタジオで、まるで声で肩を叩けるほどに元気一杯にマヤに話し かける女性。マヤの強そうな直毛の黒髪とは対象的な肩より少し長めの柔らかな栗色の髪、メガネ をかけ、タイトなジーンズに身を包んだ長身の彼女はイラストレイターの「RIN」だ。マヤが今出演し ているドラマで彼女の役は聾唖の「絵本作家」であり、その絵本のイラスト部分の吹き替えを担当し ているのが、この若き人気イラストレイターのRIN。彼女の描く線の細い、儚げでいながらそれでい て妙に人の心にリアルに食い込んでくるイラストは女子中高生の間でもはやカリスマと言ってもい いほどの人気を博していた。だが本人はそんな評判を一切気にせず、淡々と生きている。驕らず素 朴な彼女はこの現場で出会ったマヤを、いくつか年上ということもあってお姉さんとして、とても可愛 がってくれているのだ。マヤはそんな彼女から一本のネックレスを受け取った。珍しく自分で買い求 めたプラチナのチェーン。そしてそのチェーンには指輪が通されている。真澄から貰った指輪だ。本 当なら指にはめておきたいのだがマヤは女優である。ドラマで演じる女性が常に左手の薬指を拘 束されている役柄ばかりとは限らず、まして今演じている役は絵本作家。手元が映るシーンで指輪 の跡があってはいけないと思い、指にははめずにネックレスとして身に付けているのだ。だがそれ も撮影の間は外さなければならない。いつもはマネージャーに預けているネックレスを、今日はスタ ジオに来ていたRINに預けたのだった。
「ね。今日、ホワイトデーだね」
 マヤにネックレスを渡しながらRINが話しかける。
「そうですね」
 勿論マヤも今日が何の日であるかは知っていた。実際、先月のバレンタインの日にスタッフ、共 演者の男性陣に、女性陣と共に共同で感謝の気持ちのチョコを渡しており、そのお返しとしてつい さっき、袋に詰められた可愛らしいクッキーの詰め合わせを貰ったばかりなのだから。
 だが、ネックレスを首の後ろに留めつけるマヤの姿を見ながら、RINはその返事では到底納得い かないようだった。メガネの奥からじぃっと瞳を覗き込んでくる。何しろマヤはつい先月、公に事務所 社長の速水真澄と婚約を宣言したばかりなのだから。マヤの胸元で輝きを放つ、大きくはあるもの の決して華美にはならない繊細なデザインのアメジストの指輪がその証だ。バレンタインの当日、 あまりにロマンティックにして電撃的な宣言は速水氏からなされ、しばらくの間マヤは芸能レポー
ターたちに狙われ揉みくちゃにされていた。しかし1ヶ月が経ち、ようやくそれも収まってきたようだ。 とは言ってもそれは人々がそのことを忘れたからではない。過熱する報道に翻弄され疲弊しきった マヤを慮って真澄が大都芸能の名で報道に圧力をかけ、結果下火にせざるを得なかっただけなの だ。つまり、多くの人間がまだ、このセンセーショナルなニュースについて隙あらばもっと詳しく知り たい、と実は思っている。
「社長さんから、何かもらうんでしょー?楽しみだねぇ?」
 だがRINはそうした人々とは全く違っていた。マヤの控えめで地味な雰囲気、それでいて演技に かける真摯な態度と情熱を現場で見て心を打たれた彼女は、心底仲良くマヤと付き合いたいと思っ ており、そんな彼女にとって、マヤの幸せはまた自分の幸せのようにも感じられるのだから。嬉しそ うに話す彼女を見ながら、マヤは控えめな笑顔を向ける。
「一緒にお食事に行く約束はしていますけど、別に何ももらわないと思う・・・」
 恥じらいながらおねだりしたプレゼントの事などを打ち明けてくれると思っていたRINは、あまりに 予想外の答えに驚き、思わず大声を上げてしまった。その口をマヤは慌てて押さえる。
「そんなに大きな声出さないで下さい」
 自分より年下の、まだ幼い印象さえ受けるマヤに諌められ、RINはとりあえず落ち着くとごめんご めん、と謝った。
「だけど、婚約発表1ヶ月でしょー?どーしてー?マヤちゃん、バレンタインに何も上げなかった の???まさかねぇ?」
 未だ納得いかない様子でRINはマヤを問い詰める。だがそれには「内緒」といたずらっぽく笑って 答えるだけに留め、マヤはスタジオを後にした。全くワケのわからないまま立ち尽くすRINを一人ス タジオに残して。



 マヤは実はバレンタインデーに真澄にチョコを渡していないのだ。だがそれは決して真澄とケンカ したからとか忙しくて会えなかったから、と言うわけではない。ドレッサーの中からこの日、共に食事 をするために彼からプレゼントされた大人しいデザインでありながら上質のシルクで織られたドレス を出し、その滑らかな布地に袖を通しながらマヤはその時のことを思い返していた。

 東と南に窓のあるここは、朝から本当に日当たりがいい。真冬独特の純粋すぎる日差しがまるで 福音のように窓から差し込んでくる。照らし出されたオフホワイトの壁紙に留めつけてあるカレン
ダーからマヤは過ぎていった1月の分をそっと丁寧に破り取った。その下からは、それまでひっそり と姿を隠していた2月のカレンダーが晴れ晴れと現れ出でる。そう。今日から2月。3日には節分が あり、20日には自分の誕生日が待っている。だがマヤにとってそれよりも大切な日があった。誕生 日の1週間前の14日。見るとそこには既に「バレンタインデー」の表記とハートマークが印刷されて いるではないか。マヤは手にしていた赤い油性ペンのキャップを外し、その日付の場所で手を止め たが結局何もせずにまたキャップをしてしまった。浮き立つ気持ちのままにカレンダーに印をつけよ うと思ったのだが、既に印刷されている文字を見て急に照れてしまったのだ。
 手にしたペンを、パールホワイトの電話の横に置いてあるペン立てに戻しながらふと、これまでこ ういったことには殆ど無縁だったことに気がつかされる。いつでも演劇一筋に生きてきて、生きるこ とはすなわち「紅天女」を掴むための稽古の日々だった。恋してさえも、結局は「紅天女」に繋がっ てしまう。もっとも、“恋”を自覚した時点で彼には婚約者がおり、とてもバレンタインどころの騒ぎで はなかったのだが。

 「聖バレンタイン・デー」。古代ローマ帝国において皇帝クラウディウスが愛する人を故郷に残した ままでは兵士の士気が下がるとして兵士の結婚を禁止した。だがキリスト教の司祭バレンタインは 若い恋人たちの望みを叶え皇帝には内密で数多くの結婚式を挙げたのだ。これが皇帝の知れると ころとなり、捕らえられ火刑に処され聖人になったことを記念して祝われるようになったとされるキリ スト教の祝日である、と言われている。だがキリスト教徒の少ないここ日本ではそんな聖なる記念 日もお菓子メーカー等に踊らされ、なぜか女性から男性へと愛と共にチョコレートなどのお菓子やプ レゼントを贈る日としてちょっとした国民総出のイベントになってしまっているのだった。もっとも女性 から男性へと贈られる愛には恋愛、友愛、親子愛、果ては人類愛なるものまでもが、いつのまにか 数え上げられるようになっている。マヤも現在収録中のテレビドラマのスタッフには友愛の気持ちを こめて贈ることにしていた。だが勿論それとは別に、今年は恋愛の愛を贈りたい人がいる。
 あの夏の日。母の墓前で思いがけない奇跡が起きた。唐突に、彼の愛を知らされたのだ。紫の バラの人としての名乗りも上げてくれた。そして、夢にまで見た彼との抱擁。母の大きな愛を強く感 じることもできた。あの場所であったからこそ、素直に彼の想いを聞くことができたのかもしれない と、思える。
 しかも、これは後から知ったことなのだが、自分に全てを告白するために、その資格を得るために と、彼は紫織との婚約を解消までしてくれていたのだ。あの射すような日差しの中で彼から心のう ちを聞いたとき、予想もしなかった告白に思わず彼女の存在も忘れてしまっていた自分が恥ずかし かった。そして、その決断と実行が並大抵ではなかったであろうことは想像に難くない。そんな彼の 深い愛をマヤはどれほど嬉しく思ったか知れない。
 彼の想いを知り、彼への想いをもう、隠さなくてもいいことを知った。誰に遠慮することなく、愛して いると言える自分が何より嬉しい。その満たされた心が、マヤをひたすら「紅天女」へと向かわせた のだった。互いの想いを打ち明けあったのが夏。そしてそれからは追い込みに入った「紅天女」の 試演に向けて猛烈な稽古が始まったのだ。彼に愛されている喜びはマヤの精神力を驚異的に強 め、小さな体からは想像もつかない圧倒的なパワーで梅の古木に宿る女神を演じて見せ、見事試 演を乗り切ったのだった。その演技は視力の殆ど戻った亜弓をも唸らせるに十分すぎるほどの存在 感であり、これにはさすがの亜弓も納得せざるを得なかった。こうしてマヤはその秋に「紅天女」を 掴み取り、最初から亜弓自身に勝つことを宿命付けられていた勝負に見事期待通りに勝つことが でき、彼女の唯一人のライバルとして恥ずかしくない自分を見せることができたのだった。
 試演を終え、正式に「紅天女」を亜弓から引き継いだマヤは、直後、大都芸能と上演の委託と所 属女優としての契約を結んだ。夏以来忙しくゆっくり会うこともなかった真澄に会える。そう思うと心 が浮き立つのを抑えることがなかなか難しいマヤだった。実際、久しぶりに見る彼はなんとも言いよ うのないほど素敵に見え、契約を交わすために膨大な文書に署名、捺印する間もただじっと彼の顔 を見つめていてかえって真澄に怒られたりしたものだった。折角久しぶりに会えたのに、と少しばか り恨めしい気持ちもしたが、その後お祝いの食事に誘ってもらえたので勿論お釣りがくるほど嬉しい マヤだった。
 一区切りがついてようやく少し自分の時間が持てるかと思っていたマヤだったが、その考えが甘 かったことをすぐに思い知らされた。雑誌やテレビなどのインタビューが目白押しにあり、マヤはどこ の誰ともわからない大勢のインタビュアーから判で押したように同じことを聞かれ、判で押したように 同じことを答えた。質問の内容は大都芸能で十分に吟味し許されたものばかりだったので、同じ質 問にならざるを得なかったことを、勿論マヤは知らなかったが。
 インタビューなどが落ち着いた頃、今度は引越しが待っていた。大都芸能が用意した瀟洒なマン ションへ移り住むことになったのである。気がつけばもう冬。その間あまりに忙しく、真澄とゆっくりと 過ごすことなど到底できないマヤだった。
 ようやく新居となるマンションでの生活が軌道に乗る頃、もう世間はクリスマスシーズンに入って いた。多くの恋人たちが共に過ごすクリスマス。だがそこは芸能会社の社長である真澄。彼は芸能 関係のクリスマス・パーティーを主催し、そのホストとして客をもてなさなければならない立場だ。マ ヤは招待客の一人として彼から個人的にプレゼントされたシンプルで清楚なドレスに身を包み出席 したがほとんど彼とゆっくり話す時間は持てなかった。何しろ彼は忙しいのだ。紫織との婚約を解消 したことで、予定されていた多くの事業が立ち消え、それに伴いその事業から見込まれていた収益 の一切が見込めなくなってしまったのだ。幸い、鷹通からは業務妨害などの嫌がらせはなく、それ だけが救いだったが。しかし会長である義父からかなり厳しいことを言われたようで、真澄はこの 頃、それこそ眠る間もないほどに忙しいらしかった。マヤは自身のマネージャーからその話を聞いて いたので、淋しいとか、会いたいとかの泣き言は一切言えずにいた。我慢しなければ。そう、言い 聞かせて。
 真澄の方では年末、年始と同じように忙しくパーティーが続いた。マヤの方でも1月に入りすぐにド ラマの撮影が始まったため、2月を迎える今日まであわただしく過ごしていたのだった。だがその撮 影も順調に進み、今日はこれからスタジオに向かわなければならないが、明日はお休みである。そ れに、14日も。明日の休みには彼に何かプレゼントを買いに行こう。マヤは心に決めた。何しろ真澄 は甘いものが苦手らしい。チョコレート売り場でビターな大人の味の高価で小さなチョコを買い、プレ ゼントに添えて14日に渡そう。彼は仕事かもしれないが、なんだったら社長室まで乗り込んでプレ ゼントだけ渡せばそれでいいのだ。顔を見て、愛し合っていることを確認して。そう考えるともう、頬 が赤らんでくるのを自覚してしまう初々しいマヤだった。

 ドラマの撮影は疲れる。舞台と違い、別な人間に成りきったままで通すことができないからだ。舞 台は集中力を長時間持続させなければならず、幕が下りれば勿論ドラマなどとは比較にならない ほどの体力の消耗はあるのだが、それを問題にできないほどの充実感、精神の高揚感があり、マ ヤにはそれがたまらないものだった。一方ドラマや映画ではその集中力をブツブツとこちらの気持ち にはお構いなしに途切れさせられる。高校生の頃、確かにドラマや映画には出演していたが、そう いったことに慣れる前に、それらの世界からは縁が遠くなってしまったのだ。だが、何事も経験だ、 とも思う。舞台ばかりが芝居ではないことも自分は知らなければならないだろう。これから大都芸能 の所属女優として生きていくのだから。それに。このドラマに出なければ出会えなかった人は数多 い。たとえばイラストレイターのRINもその一人に数えられるだろう。マヤは彼女が好きだった。どこ か麗にも似ていると思える。勿論、容姿ではない。確かにマヤよりはるかに背が高いと言う共通点 はあるにはあるが、何よりも似通っていると感じられるのは、マヤに接する態度であり、その態度が にじみ出てくる心のありようだとマヤは思っている。姉のように接し、姉のように心配してくれる彼女 との出会いは、引越しによって長年一緒だった麗との同居を解消して淋しいマヤの心を慰めてい た。彼女と出会えただけでも、このドラマに出演することになってよかったと思えるマヤだった。
 そんなことを思いながらマンションに帰りついたマヤは何の感慨もなく、日常の中の一つとしてい つも通りに郵便受けを覗く。今日は封書が一通だけ入っていた。取り出してみると、その封書は表 に簡単に「マヤ様」とだけ書かれている。慌てて裏を返してみたがそこには何の記名もない。だが、 その文字を見ただけでドキンと心臓が跳ね上がるのがわかる。それはいつも見慣れたあの人の文 字。震える手でしっかりと胸にその封書を抱きしめ、エレベーターに乗って自分の部屋に到着する。 大急ぎでドアにロックを掛けると玄関のたたきでそのままその封書を開けてしまった。中から出てき たのは一枚のメッセージカード。一輪の、紫色の小さなバラのイラストが印刷されている非常に厚 く、それでいて繊細な手触りの紙だった。恐らく、上質な紙なのだろう。久しぶりに彼から連絡が来 た。一体なんと書いてあるのだろうかと、浮き立つ心を抑えつつその文字を読むとそこには・・・。
“もうすぐバレンタインですが、わたしは何も要りません。どうかお気遣いなく”とだけ書かれているで はないか。これは一体どういうことだろう。甘いものの苦手な彼のことだから、バレンタイン・デーで あってもチョコレートはいらない、と言う事だろうか?だがそれにしてはあまりにもそっけなくつれな い内容ではないだろうか。マヤには全く訳がわからなかった。
 あの夏の日以来、お互いに忙しくゆっくり時間を過ごしたことは片手の指でも余るぐらいの二人だ った。それ以外はパーティー会場や大都芸能の廊下などでちらっと見かけたりする程度。携帯も持 たないマヤと真澄はメールの交換すらしたことがない。たまに真夜中、マヤの眠ってしまった後で真 澄から疲れた声の電話がかかってくる。留守電に「元気か」などと簡単なメッセージが残されている ことが常で、それを翌朝聞いて折り返し電話をしたいマヤだったが、彼が忙しいと思うとなんとなく 遠慮が先に立ってしまいそれもできないでいたのだ。そうこうしているうちにだんだんと疎遠になっ ていくのをマヤはどうしても感じていた。それなら自分から行動を起こせばいいのだろう。彼に対し て恋愛感情を持つ前、よく突然押しかけて「豆台風」などと呼ばれたように。だが今はそれができな い。どうして?恋する前には知らなかったためらいや恥じらい。そんなものに縛られてマヤはもう、心 のままに行動できないでいたのだ。あの夏の日の告白は、抱擁は、あれは自分一人が見た夢だっ たのだろうか。自分はもう、彼には必要がないのかもしれない・・・。メッセージカードに書かれた彼 の文字を唇に押し当て、マヤは声を殺して涙を流した。






 翌日はオフだったがマヤは何も手につかず朝から夜まで一日中一人で鬱々と過ごしていた。そん な哀しい休日も、時間が過ぎていけば明けてしまう。翌日からは仕事だった。が、その方が家に一 人でいるよりもずっとマヤの心を救った。人前に出れば強がらなければならない。それが家に帰っ てからどれほど負担になろうとも、少なくとも強がっていられる間だけは泣かずに済むのだから。泣 くのは一人、マンションの部屋で充分だった。
 撮影の方もちょうど主人公である聾唖の絵本作家が恋しい男性の恋愛を知り、苦しみ、傷つき、 涙に暮れるシーンや絵本作家として壁に突き当たったりするシーンの撮影が多かったことが幸いし たようだった。それに、こうして自分を甘やかさず頑張り通せたのも、自分が醜態を晒しては真澄に 迷惑がかかるだろうと思えるからだ。そうなってはいけない。それだけは避けなければ。どれほど苦 しくとも彼を恋する気持ちを止めることはできない。それならば、苦しむ他にないのだ。だからマヤは 笑顔を絶やさず、ただ一人静かに心の中で苦しみ続けた。
 
 こうして2週間も経っただろうか。食べることも眠ることもできずに苦しみ抜いたマヤはさすがに体 調を崩してしまい体重も激減していた。そのせいか集中力も欠け、その日は何度もNGを出してしま いお陰ですっかり帰るのが遅くなってしまったのだ。ソファに身を投げ出すようにして時計を見ればも う11時を回っている。ようやく、今日も終わった・・・。明日はオフだった。誰にも会わずに一人でゆっ くりと泣いて過ごそう。そう思いながら何気なくカレンダーを見ると、明日の日付の部分に小さな
ハートマークが印刷されていた。あぁ、そうか。明日はバレンタイン・デー。マヤは涙がこみ上げてく る予感に身構えた。構えなければ簡単に打ちのめされてしまうからだ。





 胸の奥が突き上げられるように痛む。まるで見えない手で地上に上げられてしまった金魚のよう に息もできない。手が自然に口元を覆う。唇の両端が無理に引き伸ばされたように引きつり、それ に伴って頬がおかしな形に歪んで緊張している。眉が互いに寄り添おうとするかのようにひどく寄 る。搾り出すように涙の最初の雫がじわりと滲み出す。そこから先はもう、こみ上げてくる嗚咽を堪 えるのに必死だ。声を出してはいけない。出したら最後、慟哭の波に飲まれてしまい抜けられなく なってしまう。慟哭の波は新たな慟哭を呼び、翻弄されて疲れ切ってしまうのだ。もう、何度も経験 してきたからそれはよくわかっている。泣くのはもう、明日にしたい。今日は何もせず、何も考えず
眠ってしまいたい。だがそんな理屈を、感情が理解してくれるはずもない。どうしてこうもあたしの心 は聞き分けがないんだろう?マヤはこみ上げる慟哭と戦いながら、疲れ切って、結局は望みどおり に眠ってしまった。ソファの上で。

 突然目が覚めたのはどうしてだろう?マヤはぼんやりとする頭で時計を見る。意識が無くなってか らまだ30分ほどしか経っていなかった。その時、インターホンから自分を呼ぶ声が聞こえてきた。 聞こえてくるのは、あの愛しくて甘い声・・・。
「マヤ?起きているのか?寝てるのか?頼む、起きて入れてくれ」
 あぁ、目が覚めたのはこのせいだったのだ。マヤは慌ててインターホンに駆け寄る。カメラからの 画像には、今まで見たこともないようなラフな服装の真澄が、コートを腕にかけこちらを見上げてい る様子が見えた。
「ど・・・、どうしたんですか?速水さん」
「何でもいいから早く開けてくれ」
 はい、と返事をするとマヤは慌てて玄関ドアのロックを解除した。真澄がロビーに入ってくる。エレ ベーターに乗って、間もなくここにやってくるだろう。でも、一体何のために・・・?
 チャイムが鳴って、彼がドアの前に到着したことがわかる。
「おれだ」
 真澄の声。待ちわびた声。それがどれほどこの心に甘く響くのか、今日改めて思い知らされた。こ れほど、自分は彼が好きだったのだと突きつけるその響き。彼が何を告げるためにこんな時間に来 たのか、そんなことも今は考えられない。あれほど苦しい思いをしたというのに、彼の声を聞き、そ の顔をみただけでもう、あの辛い思いが一瞬で甘く溶けてしまうのを感じる。あの泣き暮らした 日々、慟哭の日々はすべてこの一瞬をより喜べるための単なるスパイスだったとでも言うのだろう か。急いでロックを外し彼を中へと招じ入れる。
「速水さん、こんな時間にどうしたんですか?夜はまだ寒いのに・・・。待たせました?眠っちゃって たみたいでごめんなさい」
 嬉しさのあまり自分の心が浮き立つ様を我ながら恥ずかしくさえ思い、そんな自分を誤魔化そうと 言うのかつい早口にまくしたててしまうマヤは忙しく口を動かしながら彼のためにスリッパを出し、 部屋の奥、リビングへと通した。
「そこに座ってください。今、温かいお茶を出しますね。あ、それともコーヒーがいいですか?」
 真澄にソファを勧め自分はキッチンへと急ぐために彼の傍をすり抜けようとした。その時。
「きゃっ」
 ふいに通りすぎざまに真澄に二の腕を掴まれてマヤは思わずよろけてしまう。そのすっかり軽くな った体を、真澄は背中から支える形で受け止めた。
「ずいぶんやせたな・・・。辛かったのか?」
「あ、あたしったら、ごめんなさい・・・」
 思いがけない優しい言葉と抱擁。そしてそれらへの戸惑いと恥じらい。マヤは自分の顔が見られ なくてよかったと思った。きっとどうしようもないほど赤くなってしまっているのだから。
「あ、あの。離して下さい。今コーヒーを・・・」
 だがマヤの懇願を真澄は聞いていないのか。じっと身じろぎもせずもう何も言わない。どうしてな の?不安が急激にこみ上げる。これから何を言うつもりなの?何をするつもりなの?もう、あたしはい らない、って、それを打ち明けるために来たの・・・?
 今、泣いたらいけない。彼に迷惑がかかる。声を出してはいけない。止まらなくなる。必死の思い で堪えるマヤの耳に、突然ピピピ、と電子音のアラームが聞こえてきた。
「よし、やっと12時過ぎたな」
 真澄は自分の腕時計を見つめながらそう呟いた。どういう意味?12時になるのを待っていた の・・・?マヤの頭はますます混乱していく。
「ハッピー・バレンタイン、マヤ」
 うかつにもマヤは真澄からコートを預かっていなかった。つまり彼はまだその片腕にコートを掛け たままだったのだ。そのコートの中から飾り気のない真っ白な四角い紙製の箱を取り出し、そっとマ ヤの手に持たせる。
「開けてくれ」
 訳もわからず、まるで魔法にかかったように彼の言葉に従う。かさりと乾いた音を立ててふたを開 けるとそこには。
 紫のバラをメインにした、小さなブーケが入れられていた。
「速水さん、これは・・・?」
 ブーケに目を奪われたままでマヤが尋ねる。
「今日はバレンタイン・デーだろう?女性からチョコレートを贈るなんて日本ぐらいだ。殆どの国では 男性が女性に花やケーキと一緒に愛を贈る日なんだよ。知らなかったのか?」
 知らないだろうことを知っていながらわざとそんな風に彼は言うのだ。それはマヤにもわかる。彼 一流のイヤミなのだろう。けれど、涙が止まらない。嬉しくて、嬉しくて、ただもう、嬉しくて・・・。
 飽きられていた訳ではなかった。疎まれていた訳ではなかった。あたしはまだ、彼に愛されてい た。この2週間流し続けた苦く苦しい涙とは違い、甘く暖かな涙でその両頬を飾りながら真澄に背 後から優しく包まれ、マヤは彼からの愛を受け取るように、そっとブーケに手を伸ばす。何も知らず に差し出すその華奢な手が、ブーケの下に隠された彼の本当の愛に気がつくのは、きっともうす ぐ・・・・・






<Fin>