四月になれば彼女は
「大っ嫌い!もう二度とこんなところに帰ってきませんから。くれぐれもお忘れなく!」
そう言って、屋敷を飛び出したのは2時間前のこと。
朝倉さんたち速水家の人たちがあわてて後から追いかけてきたけど、あたしの歩みを止めることは
できなかった。たとえばこれがリビングでブルーマウンテンを口にしながら、平然とあたしの背中を
見送ったひと・・・速水真澄・・・あたしの旦那さまだったなら。
―――多分、あたしは立ち止まっていたのに。
ちくちくと痛む胸を押さえながら、たどり着いた公園のベンチで一人空を見上げてみる。
四月の空は柔らかな淡いパステルブルー。吹き抜ける風は優しくそよぎ、どこかから甘い花の香り
を運んでくる。目の前を通り過ぎる子供たちも明るい歓声を上げて戯れ、春の訪れを心から満喫し
ているようだった。
そんな華やいだ風景の中で、たったひとり暗い気持ちを抱え込んでる自分の存在は異質に他なら
ない。
「あーあ、何であたしってこう強情っぱりなんだろう」
叶うはずはないと思っていた彼と気持ちが通じ合って3年。
そしてその彼の妻となってもうすぐ一年。
愛しいひとが手の届く距離にいるこの夢のような現実。
朝のまだ朦朧とした意識の中、ふと隣で無防備な寝顔を見せる彼に未だにどぎまぎしてしまうこと
だってあるくらいだ。
夢なのか現実なのかよくわからなくて、そうっとかすかに息が触れる距離まで近づくと、ふいうちの
キスが襲ってくる。少し寝ぼけたような鳶色の眼と悪戯が成功した子供みたいな表情が意外に可
愛くて、あたしはそれ以上何も言えなくなってしまう。
そしてこれが夢でもなく間違いでもなく、今ある現実なのだと確信するのだ。
それはいつでもどんな時でも胸の中をを喜びでいっぱいにさせるあたしの一番大好きな瞬間。
(それなのに・・・なんでいつも喧嘩しちゃうのかなあ)
今から思えば喧嘩の理由さえよく思い出せない。何かささいなことだったように思う。
例えばいつまでも自分を子供扱いして、一日に一回はからかって遊ぶこと。そしてあたしがそれに
癇癪を起こすと、あの長い体を折り曲げて子供のような笑い声をあげること。
(彼はちょっとそこらにいないくらいの笑い上戸なのだ)
しかしもうすぐ初めての結婚記念日がやってくるというのに、いつまでもつまらないことで怒ったりい
じけたりなんかしたくなかった。だからどんなに彼がそんな自分の自制心をつつくような言動をとっ
ても知らないふりを続けていたのに・・・。
(もう愛想つかされちゃったかな?)
はああと思わず零れたため息に、気分はますます重く沈むばかりだ。
頭上から、風に運ばれた薄紅色の花びらがはらりはらりと舞い降りてくる何気なく手を差し伸べる
と、スローモーションのように一片の花びらがやんわりと収まった。
―――まるで木花咲耶姫だな
ふいに頭の中で低い優しい声が響いた。
(え・・・っ)
振り返った先には、満開の花を揺らせながらたたずむ桜の樹。
音もなく静かに降り注ぐ薄紅色の花嵐。
空も大地も人もすべてが桜と一体となりそれは幻想の世界と化す。
―――雪を融かし、水を温ませ、大地に命を吹き込む春の女神のことだ。
髪に、肩に、開いた手の中に。
幾片も舞い降りてくる優しい奇跡。
―――君には春がよく似合う。
呆然と立ち尽くすあたしの体をふいに温かい腕が包みこんだ。走ってきたのだろうか、髪に触れる
吐息は少し熱を帯びていた。けれどもそれは懐かしい温もりだった。
そっと大きな手に自分の手を重ね、少しだけ眼を閉じてみた。
―――君は俺の春の女神だ。
ゆっくりと開かれた眼先にいたのは、ただひとりの存在。
満開の桜の樹の下で、あたしを見つめている美しいひと。
「仲直りするために来てくれたの?」
「・・・違う」
「何が違うの?」
「桜が綺麗だったから。それに誘われただけだ。そうしたら春の女神さまに偶然出会ってね、せっか
くだから一緒に花見としゃれ込んだわけだ」
「もうっ、またそんなこと言って。いくらご機嫌取っても、速水さんが謝るまではあたし帰りませんから
ね」
「まあ、こんなところで喧嘩はやめよう。せっかくの美しい桜が台無しだ」
そう言って速水さんはさらにあたしを抱き寄せた。柔らかな髪が頬にかかり、ふわりと優しい彼の匂
いに包まれる。
(何だかうまくはぐらかされちゃった・・・)
少し不満顔で彼の顔を見上げたあたしは、すぐにその考えを改めることにした。
あまりに安心しきった無防備な表情は、いつもの朝と同じものだったから。
閉じられた彼の睫毛を見つめているうちに、なぜだか切ないような想いに駆られた。

いつまでもいつまでもこのひとのそばにいたい。
そしてずっと誰にも見せないあたしだけの顔を見せてほしい。
これから先どんなことがあってもあたしはいつも笑っているから。
幾度季節が巡っても、変わることなく美しい花を咲かせるこの桜の樹のように。
―――このひとの隣が、きっとあたしのたったひとつの居場所だから。
彼のまぶたがゆっくりと開き、優しい鳶色の瞳が自分の姿を捉える。
やがて浮かんだ微笑は春の陽射しのように暖かいものだった。
「・・・桜の花言葉を知っているか?」
「ええと、何だったっけ?可憐?荘厳?」
「はずれ。マヤ、こっちを向いて」
何気なく顔を上げた瞬間、掠めるようなキスをされた。
真っ赤になるあたしを見て、速水さんはもう一度くすりと笑った。
「―――“君に微笑む”だ。そろそろ俺にも笑顔を見せてくれないか?」
<Fin>
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