My better half


「何をしてるんだ、こんな朝早くに」
 4月になったとは言え、まだまだ肌寒い早朝。
 庭の一角にある桜の下に捜し求める姿を見つけて、真澄は足早に近づいた。
 歩くたびに下草がざくざくと音をたてる。
 その音に気づいたのか、真っ直ぐな黒髪を揺らせてマヤが振り向いた。
「速水さん」
 一瞬の驚きのあと、滲むように広がる笑顔。彼の好きな笑顔。
「おはようございます。速水さんこそ、お休みなのにすごく早くないですか?」
「そうかな」
「そうですよ」
 マヤの問いかけを苦笑で流しながら、けれどその疑問には答えない。
 ……だいたい、どう言えばいいのだ。
 朝起きた時に隣にあるはずのマヤの姿がなくて、それが不安で探していたなどと。
 桜小路あたりなら、笑いながらあっさりと言いそうな気もするが…自分はそう言う小っ恥ずかしい セリフを言えるほど若くはない。
 言おうとしたところで、結局は舌がもつれて言わずに終わってしまいそうだ。
 彼はマヤには気づかれないよう、苦笑とも自嘲とも言えない溜め息をついた。
 そう言うセリフをあっさりと口に出せる人種が、今はほんの少し羨ましい。

「別に大したことじゃない。散歩だよ。ただの」
 目的がどうあれ、散歩には違いない。
 あまりうまい言い訳ではなかったが、幸いにもと言うべきか、やはりと言うべきか、マヤは気づか なかったらしい。疑いなど微塵もないような視線で、ふわりと微笑む。
「じゃあ、あたしとおんなじ」
 マヤは真澄がその姿を見つけた時のように、再び頭上を振り仰いだ。真澄もそれに倣って、頭上 を見上げる。
 見上げた先には、朝になったばかりの薄水色の空と、淡いピンクに色付いた満開の桜。
 思わず目を細めた。
 こうやって桜を眺めるのなど、どのくらいぶりだろう。春はいつも慌ただしくすぎて行って、気がつけ ばいつも初夏…どころか、夏だったと言うことが少なくない。
 少なくともここ10年近く、大都に入ってから、いや、恐らくは、“速水真澄”になるのだと決めた時 から、なんの理由もなくただ桜を眺めたことなど皆無だった。マヤの居場所をメイドに尋ねるまで、桜 があったことさえ忘れていたのがいい証拠だ。

「…きれい、だな」
 ぽつん、と零れた呟きに、マヤが黒目がちの瞳を細めて微笑んだ。
「うん。あたしもそう思う。すごくきれいな桜…」
 彼女の勘違いを、しかし彼は訂正しなかった。
 きれいな桜。
 ああ、確かにその通りだ。
 淡く柔らかな色の花を一斉に咲かせ、見上げる視界いっぱいに広がっている。
 誰が見てもきれいだと思わせる何かが、桜にはある。
 けれど、そうではなくて。心からきれいだと思ったのは、桜ではなくて。

 ひらひらと花びらが散っていく。
 ゆっくりと風に舞うその姿は、どこか白い羽が散っていくのにも似て。
 その中に立つ彼女が、まるで……
 行きついた自分の考えに、頬が熱くなっていくのがイヤでも分かる。それは30過ぎの男が考える には、あまりにも……
「…速水さん?」
 口元を右手で押さえ、あらぬ方向を見つめていると、マヤが不思議そうに彼を見上げた。
 なんでもない、ともごもごと口を動かす。
 大きな瞳が瞬きもせず見つめてくるのが、なんとも居心地が悪い。
 早く何か話題を逸らさなければ。
 しかし接待の席ではいくらでも出てくる話題も、こういう時に限って何ひとつ出てこなくなるのだ。

 そんな自分が、少し情けない。

 暫く、彼にはなんとも言えない沈黙が流れた後、こちらを見つめるマヤの顔がふと綻んだ。
「早起きは三文の得って言うけど、本当だったんですね。朝から得しちゃった」
 微笑む顔が本当に嬉しそうで、なんとか真澄も小さく笑うだけの余裕を取り戻す。
「何を得したんだ?」
「もちろん、速水さんと一緒に桜を見れたこと。それから……」
 刹那、ざっと音をたてて、強い風が吹いた。桜の花びらが舞いあがる。
 抜けるような青空と、白い花びらのコントラスト。
「笑わないでくださいね」と前置きしてから、マヤがはにかむように言った。
「ひらひら落ちてくる花びらがすごくきれいで、天使の羽みたいだなぁって。もし天使が本当にいるな ら、きっと速水さんみたいにかっこいいんだろうなぁって」
 なんの屈託なくもなく告げられて、真澄は思わず大きく瞬いた。
 先刻、自分も似たようなことを考えていた。
 淡い花びらが羽のようで。
 もし天使というものが実在するなら、彼女のようなものを指すのかもしれないと。
 それにしても、まさか二人揃って同じようなことを考えているとは、思いもしなかった。
 嬉しいような、少しくすぐったいような、そんな想いが胸に広がる。

 ふっと落ちた柔らかな沈黙の間を縫うように、桜が舞う。
 それは本当に、天上に舞う白い翼のようだ。
 彼は腕を伸ばして、彼女の小さな身体を軽く抱き寄せた。
「本当にきれいだな」
「うん。ねぇ、速水さん。今日はお花見しよう? お父様や朝倉さんも誘って」
「…そうだな、それもいいかもな」
 楽しそうなマヤに頷きながら、真澄はそっと彼女の背を撫でた。
 不可視の翼をそこに探すかのように。
 何度かそんなことを繰り返すうちに、いつの間にか笑っていたらしい。マヤが不思議そうに見上げ てくる。
 それにただ静かに微笑み返して、真澄は目を細めた。
 ――彼女の背中には、大きな羽がある。
 高く舞い上がる為の、真白の翼。
 そしてマヤが言うように、自分の背中にも翼があるのだろうか。
 あればいいと、祈るように願う。
 何よりも高く舞い上がる為の、対の翼。
 信じてもいいだろうか。いや、信じられる。 
 紛れもなく、マヤは自分の片羽なのだと。
 自分はマヤの片羽なのだと。
 それは、比翼の鳥のように。



 ――――――……My better half.




<Fin>

※My better half…「我がよき片羽よ」と言う意味です(たぶん)。