桜の下にて・・
「うわ〜・・・・・!!」
一言、感嘆の声を上げると、それ以上はもう言葉にならないようだった。じっと何かをこらえるよう
に立ち尽くしていたが、やがて自分の発した声に誘われるように駆け出してしまう彼女に、真澄は
胸を打ち抜かれるような衝撃を感じてしまう。
“綺麗だ・・・”
一言、言葉に出してしまうことができればどれほど楽だろう。重いコートを脱ぎ捨てさせる陽気に
応えるように、マヤは若草色のニットと目にもまぶしい真っ白なスカートという出で立ちだ。重力が自
分よりもはるかに軽く感じられるのだろうか。彼女は踊るように軽い足取りではらはらと花びらを散ら
す満開の桜の木の下に向かって駆けている。風をはらんだカーディガンとスカートの裾が、まるでマ
ヤに追いつこうとするかのように、真澄には見えていた。
桜は座鞍。光臨した神の座られる神聖な樹木だと古来、人は信じてきた。春の喜びを人の心に呼
び起こすその花の色と香り。梅の木が慎ましやかに春の訪れを告げるなら、桜は短い春を謳歌する
華やかさを持っている。公園の、無数にある桜の中でも最もたわわに花をつけた木の、その枝の下
に立つマヤは今、紅梅の女神ではなく桜の精霊のように見える。
「速水さん!早く早くぅ!!」
そんなことをぼんやりと考えている真澄を現実に引き戻す愛らしい声。今はもう、ずいぶんと遠くに
行ってしまったマヤが手を振りながら自分を呼んでいる。髪に肩に、淡い紅色の花びらが降りかか
り、彼女を優しく彩っていく。
駆けてみようか。この春の暖かい風に誘われて。大都芸能の速水真澄。だが、それがどうした。
恋しいあの子が自分を呼んでいる。そう思うと、いても立ってもいられず、気がつくと足は大きく前へ
と進んでいた。
体はいつも鍛えていた。忙しいこの身には、体のメンテナンスもまた必要なことだからだ。だが、こ
んな風にただ走るのは本当に久しぶりだ。ルームランナーのベルトの上ではなく、大地を踏みしめ、
蹴っていくこの心地よさはどうだ。たとえ走りにくい革靴であったとしても構うものか。まるで思春期
の少年のように、ただ恋しい人の元へと走っていく。この胸の高鳴りを携えて。こんな心を、マヤは
知らないだろう。この瑞々しい恋情を。だが、それでいいのだ。決して悟られることなく、大人の顔で
いればいい。自分の胸にだけ、枯れることのない想いを咲かせ続けていければそれが一番幸せな
のではないだろうか。
「速水さん、大丈夫ですか?」
“思春期の少年”のようだと思ったのは、どうやら心だけのようだった。いくら鍛えているとは言え、
さすがに日ごろから鍛えているマヤとは、その若さと言い体力と言い比ぶべくもない。陽気のせいと
走ったせいでうっすらと汗ばみ、肩で息をしなければならない真澄は思わぬところで己のみっともな
い姿を晒してしまったと決まりが悪かった。
「あぁ。こんな風に外を走ったのは久しぶりなんでね。どうもみっともないところを見られたな」
そんな愚痴も、マヤになら言える。マヤもまたそのことを知っているのだろう。ふふっ、と笑って見
過ごしてくれている。
その時、一陣の風が散りゆく花びらを巻き上げて吹いていった。マヤが風に煽られ乱れた髪を直
している。髪についた花びらに気がついていないようだった。
「ほら」と言って取ってやると、マヤは改めて頭上の枝から降ってくる花びらに目を留めた。
「きれい・・・」
両手を高く伸ばし、ひらひらと散り落ちる花びらをまるで幸福のかけらのようにその手に受け止め
ようとするマヤの、思わず、と言った風情の言葉に真澄も視線を上げ、彼女の心に感動を呼んだそ
の花を見た。
「本当にきれいだな」
つられて真澄も手のひらを開いて花びらを受け止めようとする。
無心に花の美しさを愛でるマヤの隣に立ち、だが真澄は彼女と同じ気持ちではない自分を見つめ
ていた。美しいものを美しいと言える、その幸せも今隣に立つマヤのおかげだろう。そして、こうやっ
て隣に立つ勇気を与えてくれたあの美しい人を思い出す。
あの人のためにも、自分は幸せになろう。あの人の、散り際の美しいこの桜の花のような勇気に
恥ずかしくない幸せを築こう。春爛漫の日差しを浴びて清々しく美しい花を見上げながら、真澄は強
く心に誓うのだった。
<Fin>
※にゃん吉様のイラスト「桜の下にて・・」を元にして作成。
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