無言歌


「車を停めて」
 突然の言葉にも慌てることなく、静かにゆるやかに車は停まる。それはまるで赤ん坊を包む柔ら かな揺りかごのように優しく。
 開けられたドア。何も言わなくても彼はわかってくれる。短く礼を言うと、私はシートから滑り降り た。
 夜の空気が身体を包む。今夜はとても寒い。こういうのを「花冷え」というのかもしれない。彼が後 ろで無言のまま心配してくれていることは知っているけれど、いっそ心地良いこの冷たさに、今はこ の身を任せていたい。引き締められ、まるで心の中の無駄な部分まで削ぎ落とす刃のような、この 厳しいまでの冷気が、今はこんなにも私に優しい。
「心配しないで」
 せめてこれぐらいの言葉は言わなければ。私がそうと言ったらそうなのだと、心得ている彼を安心 させてあげるためにも。

 ここは人の目には滅多に触れない公園。遊具もなく、わずかに植えられた木があるばかりの、た だ広いだけの淋しい場所。だから滅多に人は来ないのだろう。季節はずれの桜が、これほどまでに 満開に咲き、その軽さにさえ耐え切れないようにはらはらと夜気に花びらを溶け込ませていても、誰 にも侵されることのない静謐を保っている。 その満開の花をたわわにつけた枝の下に立てば、花 びらが無音の言葉で優しく癒し、包んでくれるのを私は感じる。この冷気の中でさえ、私の心を温か く満たしてくれるその声のない言葉たち。
「その決意は決して無駄にはならない」と。
「その辛さを乗り越えることは、きっとお前にしかできない」と。
「お前は今、とても美しい」と。
 歌うように何度も何度も繰り返しながら私に降り落ちる数え切れない言葉。
 あれは一体いつのこと?私はあの日、あの夜に、この桜の蕾に救われた。





 婚約を、大勢の人に披露したのは、あれは秋のこと。翌月の「紅天女」の試演さえ終われば私 は、私の愛する人の妻になるはずだった。それなのに。幸せの絶頂にいるはずの私の心は、決し て晴れやかとは言い難く、むしろいつも目に見えない何かが重くのしかかっているのを感じ、そんな 自分を持て余していた。認めたくない、見つめたくない予感に目を背けていたのでは、それも当然 のことなのに、私はそれでも考えたくないことに蓋をしたまま、そ知らぬ顔を決め込んでいたのだ。 けれど。
 不安は、疑惑は。まるで腐って濁った水のように、身震いするような臭気を放ちながら、僅かに綻 んだ蓋の隙間から抜け目なくどろりと入り込み私を汚していく。どれほど打ち消そうと、どれほど目 を瞑ろうと、じわじわと内側へと入り込む腐った感情。それは私の中に溜まっていき、静かに、密や かに内側を満たしていく。私はなす術も知らず、ただ諦めを抱えながら、その汚水のような感情がや がて内側から徐々に外へと向かい、決して消えない痣のようなしみで皮膚を醜悪に染めていくのを 息を詰めて見つめているしかなかった。
 いっそ、蓋を開けてしまおうかと苦しさ紛れに何度思ったか知れない。けれど、そうするにはもう手 遅れだと、私には思えた。蓋を開けてしまえば、噴出す汚い感情は奔流となって私を押し流し、溢 れ返り、飛沫となって彼をも穢すことになるだろう。それだけはできなかった。醜い自分を見たくはな いし、それ以上に彼には見せたくなかったのだ。私は、彼が望む時にだけ「婚約者」として扱われ る、ただそれだけの役を、手放せなかった。手放したくなかった。しがみついていた。彼が決して自 分から振りほどくことがないとわかっていたから。

 気がつけば、結婚の話がゆるゆると延ばされていた。世間に向けられた事情はよくわからない。 おじい様も彼も、本当のことは何一つ話してくれず、私は上辺だけのもっともらしい「よんどころない 事情」とやらを、ろくに聞きもせずに黙って受け入れたふりをして、見事に周囲を騙しおおせていた だけだった。「事情はよくわからない」?本当は誰よりもわかっているくせに・・・。
 愛されてなどいないのだ、と。認めることは実は簡単なことだった。初めから、ただの一度も愛の 言葉を貰ったことなどなかったのだから。そのことには、とうに気がついていた。けれどそのことで彼 を責めることも出来なかった。自分からは決して手を離そうとしない、ずるい男の卑怯さを、「優しさ」 と思い込んでいた愚かな自分に気がついてしまったのに、それでもそこにつけこんで婚約者として 世間に認めさせ続けている自分の浅ましさを知っているから。
 例え愛されていなくても、せめてあの人の心が誰のものでもなければよかったのに。けれど私は 知ってしまっている。自分のものだと信じて疑わなかった彼の愛が、ただ一人の人に向けられてい るということを。彼女を、女優として大切なのだと思い込もうとしていた。そうでなければあんな土臭 い小娘のどこがいいのかわからない。少なくとも、この私の方が劣っているなどとは考えることすら 出来ないもの。けれど、そうは言っても。たとえ長い間封印されていたとは言え、所詮一遍の戯曲 の上演権を握る女優の愛弟子。ただそれだけの理由でなぜ彼があれほどまでに彼女に執着する のか、いくら考えてもそこに私の納得のいくだけの理由は思い浮かばなかった。考えられることと言 えばただ一つ。僅かにでも、確かに私に向けられていたと思っていた彼の関心が、実は最初から彼 女にしか向けられてはいなかったと言うこと。認めたくはないけれど、私はそれほど愚かではない。 ただ認められないのは、受け入れられないのは、愛してもいないくせに優しくしてくれた彼と、気が つけば極端に他人行儀になっている彼。そのことに気づいて血を吐くような心の痛みを押し込めな がら耐え続けていることに酔う自分自身。こんなことを続けていくことに一体何の意味があると言う のか。
 幕引きのための綱を握っているのはきっと私。それはあなたが私の知らない間にある日こっそりと 握らせた物。もし私がこの辛さを断ち切るためにあなたに別れを告げたとしたら。その時、きっとあな たはこう言うのね。「残念だけれど無理は言えない」。そして迎える終焉。そこまでわかっていても、 いいえ、わかっているからこそ、私はあなたに切り出せない。これほどまでに苦しめられても、まだ あなたを手放せない・・・。
 心に決めた人がいながら、仕事のために私を選んだ。あなたはそんなずるい男。愛されていない ことを知っていながら、あなたが自分からは決して手を離さないことも知っていて切り離そうとはしな い。私はそんな悪い女。そして数え切れないしがらみだけで繋がっている。ちょうどいい茶番だわ。

 一人ぼっちだった。ずっと。両親は忙しく、溺愛してくれる祖父さえも忙しく。そんな私の傍にはば あやがいてくれた。ばあやだけが。友達もいない。名前と家柄のせいで。そしてこの呪わしい弱す ぎる体のせいで。それが単なる言い訳に過ぎないことに気がついても、私はそれにしがみつくしか なかった。今更誰かに心の全てを見せてまで他人と打ち解けることもできない。私はそんな淋しい 女になってしまっていたのだ。だから一人ぼっちには慣れているつもりだったのに。でも今は。
一人ぼっちはいや。あなたを想って泣いてしまうから。けれど一人じゃない時はもっといや。あなた を想って泣くことすらできないから。もういっそ終わらせてしまえばいいの?その時、私は何ていえ ばいいのかしら。「さようなら」?「ありがとう」?「愛していました」・・・?
 苦しい・・・。苦しい。
 紫織、紫織、期待しないで。あの人の関心は最初からお前の上にはないの。
 紫織、紫織、もう、諦めて。どんなに待ってももう、甘い時は来ない。
 期待して、愚かな私。泣くことになるのに。待ち続けて、本当に愚かな私。まだ、泣き足りないとで も言うつもり・・・?

 終ることなく繰り返す出口のない思い。出口など、あるわけがない。最初から確かにそこにあるの に目を背けているのだもの。見えなければないことと同じ。だから私はいつまでたってもそこから抜 け出すことはできずにいたのだ。昼も夜もなく責め続ける胸の奥の痛みに耐えながら。
 誰にも見せられないこんな思いを、隠しているつもりではいても、ばあやにはわかってしまうよう
だった。彼女は、明らかに沈んだ様子の私を心配して、彼女らしい気遣いで決して押し付けることな く私に気晴らしを勧めてくれた。大学を卒業後、学生時代から親の決めた婚約者と早々に結婚して 海外へと移り住んでいた学友が久しぶりに日本へ帰ってくるので遊びに来ないか、と招待を受けて いたことを彼女はしっかりと覚えていたらしい。出来れば行きたくはなかった。よくないこととわかっ てはいても、家の中で、部屋の中で、誰にも邪魔されずに自分の胸を内側から焼き尽くす毒液と一 人静かに向かい合っていたかったのだ。が、強情を張ることには慣れてはいない。私はこんな時に も、どこまでも育ちのいい素直なお嬢様でしかいられない自分を恨みながら服を選んで化粧をし、
黙って出かける支度を整えた。
 
 外気の寒さとは無縁の居心地良く暖かな室内。飾られたきらびやかな華々と、次々に出される芸 術品のように美しい料理たち。決して会話を邪魔することなく耳をくすぐる優しい音色。そしてそれぞ れに美麗に着飾った学友たち。けれどそんな楽しげな雰囲気の中で久しぶりに会った彼女たちを見 ても、私の心には何の感慨も沸くことはなかった。穏やかな時間が静かに流れる空間に身を置きな がら私がしていたことと言えばただ、平静を装うことだけ。いつも通りの、笑顔を絶やさない鷹宮紫 織でい続けることだけ。そのことに意識を集中していないとならないのは辛いことだったが油断する と何の前触れもなく焼け付く痛みが胸を襲ってくるのだ。そんな状態で何を見、何を聞いても心に響 かせることなどできはしない。そして、どんなに周囲に意識を向け、この辛さを忘れようとしてもふい に襲うジリジリと焼き付ける胸の痛みに耐えかねて、体調が悪いと言って私は結局その場を逃げ 出してしまった。誰も。引き止める人もいなかった。
 その帰りに、私はこの桜を見つけたのだ。滅多に人を訪ねたことのない私だったので、彼女の家 を訪れたのもその日が初めてだった。往路では気がつかなかったその公園に、復路で気がついた 私は思わず車を停めるよう彼に頼んだ。今日のように。そしてあの日も彼は、今日のように車のドア を開けて私が車に戻るまで寒さに耐えて待っていてくれた。季節は春とは名ばかりの寒さで、北国 では毎日雪が降るようなそんな日々。それでも桜の枝々にはまるで棘のように固い蕾が幾つも並 んでおり、冷気に挑む武器にすら見えてくる。幾星霜、この木は立ち尽くしてきたのか。どこにも行 けず、見えるものだけを見守り続け、聞こえるものだけを聞き続け、自分に関わる全てのことを許 し、内包し、どんな風雨にも揺るがずに立ち続けてきたのだろう。そんな桜の木の幹に、私は思わ ずそっと触れていた。この木が満開に花を開かせるところを見たいと思いながら。その頃、私の何 かが変わってくれていればいい、と思えた。
 ただ一つの街灯の、淋しい灯りに照らし出された一本の桜の古木。その潔いまでの孤高に、私は 慰めを見出したのだ。この桜の木のように。全てを受け入れて何にも負けず、自分を保って立ち続 けていたい。どれほどの年数を経ても、あらゆるものを飲み込み、消化し、限りない希望と未来のう ちに蕾に包み込んだ飲み込みきれないものを解放するために、開く時を待ち続ける。もし私にもそん なことが出来たなら、この苦しみから解放されるのかもしれない・・・。桜の木は、そんな思いで幹を 撫でている私にそっと囁きかけてきた。「お前にもできるよ」と。「自分の心に正直になりさえすれ ば。それがどんなに辛いことでも、必ずお前には乗り越えられるよ」と。本当に?と尋ねる気持ちで 振り仰げば、鈴なりの蕾たちが一斉に頷いたように見えたのは、その時急に吹き付けた枝を揺らす 一陣の風のせいばかりではないようだった。
 声のない桜の言葉を噛み締めながら車に戻った私が落ち着いたのを見計らってか、彼が静かに 運転席から話しかけてきた。
「桜は、寒い時期にしっかり寒さに耐えることがなければ綺麗な花を咲かせることができないそうで すよ」
 そう、と小さく答えた私の声が聞こえていたのかいないのか、彼はそれ以上何も言わず、後は静 かに車を滑らせるばかりだった。

 寒い時期にこそ、しっかりとその寒さを耐え切った木だけが綺麗な花を咲かせる。それが桜と言う ものなら、私は果たして桜になれるのだろうか。こんな、汚泥を這いずるような苦しみから、本当に 解放されるのだろうか。小さな蕾が一つずつ開いていくその時に、私の中の醜いものが空へと吸い 込まれて綺麗になれるのだろうか。自分さえ、それを望むのならば。
 愛してもくれない人の優しさに縛られてどこにも行けない可哀想な私。縛った男はそんなことすら 忘れ、何食わぬ顔で他の女を想い続ける。その瞬間も私を縛りながら。けれど、もしかしたら縛って いるのは私の方なの・・・?
 苦しいのは私だけだと思っていたけれど。本当にそうなのだろうかと、ふいに思ったのはどうして だか、今も思い出せない。けれどあの少女を人々の前で辱めた後の彼の切なげな表情が急に浮か んできたのだ。噛み付かれてできた傷に、まるで大切な人に口づけするようにそっと唇を寄せてい たあの姿を。そう。あれは確かに苦しい恋をしている人の顔だった。私にはそれがわかる。なぜなら 私もまた、苦しい恋をする者だから。だとしたら、彼も苦しいのだ。なぜ彼の恋が苦しいのかはわか らない。しかも今では自分から招いたこととは言え私と言う婚約者までいて、彼の恋はますます苦 しさを増しているのだろう。縛られているのは、もしかしたら彼のほう?そしてまた私自身も・・・。二 人を互いに縛りあう愚かな鎖。断ち切るのは私にしかできないのだろう。寒い時期にしっかりと耐え なければ美しく咲くことの出来ない桜。きっと男には耐え切ることはできない。強いのはいつも女。 そしてきっと、私も強いはず。あの桜のように。

 思い切れたのは、桜の咲く時期。ブライダルフェアに誘ってくれた彼を、今日こそ解放してあげよう と思ったのは。だって、私が手を離してあげなければ、彼はこの先、きっと今よりももっともっと苦し むことになるだろう。私はそんな彼を見続けたくはなかった。たとえ何日も、眠ることも食べることも できずに幾重にも慟哭に飲み込まれ疲れ切った末にやせ細ってしまったみっともない私に気がつ かないような、そんな冷たい人だとしても。それでも私は彼の苦しむ姿を見たくはなかった。
 気に入ったドレスの試着。ごめんなさいね、真澄さま。もっと早くに解放してあげればいいものを。 これが、あなたの婚約者でいられる最後になるのだもの。せめて花嫁の真似事だけでもさせてね。 こんなにやせ細って惨めな姿になっても、いいえ、だからこそ、せめて最後は美しい衣裳に身を包ん だ姿を見て欲しかった。それなのにあなたはそれさえ許してはくれないのね・・・。
 試着室に向かう途中で聞こえたあなたの声。私は試着を諦めてこっそりと別の出口からあなたを 追った。最後の時のために。あなたの解放のために。私の、解放のために・・・・・・・・・。

 あなたは最後まで酷い人だった。慟哭と憔悴の日々。私の心はまだそれを乗り越えてすらいない のに、それでも決意した私をまるで試すかのようにいつまでも愚図愚図と留まり続ける。私は自分 の苦しみの全てを隠してあなたを励まし、送り出してあげなければならなかった。彼女の元へ と・・・・・・。
 振り向きもせず、少年のように必死に走っていく後姿を見送る私の涙を風が運んで、花びらのよう に見えればいいのに。抜き取った指輪をバッグにしまうと、私は一人で歩き出した。彼に背を向け て。





 今再び、この桜の下に立つ。あの時の蕾は全て開いており、散ってしまった跡さえ見える。
 正直に言えばまだ辛い。まだ、苦しい。少しずつ穏やかになっていくのを感じる私の日常に、突然 割り込んでくる慟哭を持て余してもいる。けれどそれでも。この選択に、この決意に、この出会い に、この恋に。後悔はしていない。それらは全て私の得がたい宝物。私の人生の中で、かけがえの ないものなのだ。どんなに辛くとも、どんなに苦しくとも、この痛みの全てが彼を恋したことの証な ら、それさえも全て花びらで包んで温めていたい。そしていつしか厳しい時を乗り越えた末に、綺麗 な花を咲かせるための蕾にできたら、それでいいのだ。その時、私は満開の花を咲かせる一本の 桜になって、散る花びらに乗せて言葉のない歌を歌おう。あの人を想いながら。

 振り仰ぐ桜。夜の闇にも染まらない白にすら近いほどの淡い紅。はらはらと降りかかりながら、私 に歌いかける夜の中の桜の木。



<Fin>