闇に降る雨



たどり着けない。
此処に欲しい腕や髪や首筋。
貴方の嫌う生温い雨に濡らされていく。

「・・・紅天女はあなたのものになりました。マヤ、これからは私と一蓮の命を引き継いで、紅天女を 守っていって欲しい。それだけが私の願いです」
熾烈を極めた試演を制し、紅天女を射止めたマヤに月影千草は最後の言葉を残した。
「阿古夜の仮面を被ることがどういうことかあなたにはよくわかっているはずです。それがどんなに 残酷で非常な理に基づいたものだとわかっていても。でも、それでも私はあなたに紅天女として生 きて欲しい・・・」
すがりつくように伸ばされた細い手。思わず握り締めた掌のうちで繰り返される炎のような妄執の 念。今、月影の瞳に映っているのは何なのか。過去の光景か、尾崎一蓮、紅天女、もしくはすべて を託された自分の姿・・・。

やがて事切れた生涯の師の前で、立ち尽くしている自分の体をそっと抱き寄せる影があった。
「・・・もうお別れはすんだだろう。さあ、こっちにおいで。体もこんなに冷えてしまっているじゃない か・・・」
包み込むようなしかし逃すまいと執拗に絡みつく腕の中で、マヤはただ糸の切れた人形のようにそ の身を預けていた。
「今日は俺のところに泊まるといい。こんな時に、君を一人にしてはおけない」
長い指先が髪を掻き分け、うなじに触れる。暖かく湿った吐息が触れて、ようやくマヤは振り返っ た。熱に浮かされた眼差しが待っていたかのように自分を囚えてきた。
「・・・帰すつもりはない」
憑かれたように繰り返すのは幾重にも張り巡らせた束縛の鎖。
このような時でさえ、彼は自分以外の存在が心のうちに存在することを許さない。
とめどなく溢れる哀惜の涙。深い虚無と喪失感。真実の愛を知るひとりの女性としてそして希代の 大女優としてつねに自分を導き、進むべき道を標してくれた恩人が残したものを何一つとして失い たくはなかった。今も。そしてこれから先も。たとえこの世で一番愛しいひとの腕に抱かれている最 中でも・・・―――。
「マヤ・・・こっちを向いて。もう何も考えなくていい・・・」
強引に体を傾けられ、何か言おうとしたくちびるを塞がれた。密着した体はその圧倒的なまでの存 在感と熱情を余すことなく自分に伝えてくる。
いつのまにか降り出した雨の中で心だけを他所に追いやったまま、マヤは激しいくちづけにこたえ た。彼の想いを初めて知った時と同じように雨は生温く、どこか澱みを感じさせた。
愛するということ、愛されるということはこういうことなのだろうか。
―――この胸に巣食う痛みさえもこの人に捧げなければならないの?
わからない。
わからない。
それでも容赦なく彼は自分の手を掴み、愛という名の深く激しい渦の中へと引きずり込んだ。
「・・・大丈夫だ。何もかも忘れられる・・・」
青闇の中に沈んだ部屋の中。
冷たいシーツの上で重なり合い、つかの間の夢に溺れる。
長く繊細な指先が柔らかな肌を愛撫し、形を確かめるように幾度もくちびるで辿った。
じわじわと背筋を這い上がっていく官能の触手が、やがて理性を閉じ込め感情の留め金をはずし た。肌の内側から痺れるような甘い震えが走り思わず声を漏らす。
何度も昇りつめては焦らされ待たされ、その不埒で気まぐれな動きに翻弄される。
時には加虐的なまでに責めたてられ、彼を恨みたくなることもあった。けれどもその秘められた真実 を知る自分はギリギリのところでそれを許してしまう。
独占欲や嫉妬に駆られてのことだけではない。自分の心が少しでも離れていくことを異常に恐れて いる。そしてそれは始まりを拒絶してしまった自分の罪なのだ。
彼が傷つくぐらいなら自分が傷つく方がいい。
それで少しでも彼の煩悶が薄らぐのであれば、いくらでもこの身に受け入れよう。
激しい動きが一瞬止み、半身を起こした彼が下に組み敷いていた華奢な体を抱き上げた。茫洋とし た眼差しが交錯し、快楽の底に沈んだ真実を探るように覗き込む。
マヤは静かに微笑んだ。心に灯った愛情のすべてを伝えるように、彼だけを見つめ彼だけに許して いるこの行為を愛しむように。
首筋に両手を絡め、柔らかな髪を乱しうす紅く染まった耳朶を噛む。びくりと一瞬背を強ばらせると 貪るように腰を進め、何度も深く交わった。もう何も見えない、見たくない、すべて見えなくして欲し い・・・。
ようやく待ち望んだ刹那が近づくとより一層激しく体を揺すぶられ、極地へと追いたてられた。目の 前のたくましい体にすがりつき、体中を駆け巡る快楽の波に堪える。そして訪れるのは身を震わす ような嵐の後の虚脱感・・・。
「・・・大丈夫か?」
掠れた声で問われ、かすかに頷いた。
浅い呼吸を何度か繰り返し、汗の滲んだ額を彼の胸に押し付ける。大きな手が髪に触れ、ゆっくり と乱れを直しもつれを解いた。
優しい・・・優しい仕草で。
「すまなかったな。君の気持ちも考えずに・・・一方的にこんなことを・・・」
「そんなことない。あたし、嬉しかったもの。速水さんがあたしを一人きりにしてくれなくてよかった。 速水さんがそばにいてくれて本当によかった・・・」
少しやつれた面持ちながらもけなげに微笑むマヤを見て、真澄もようやく瞳の色を緩めた。どこか躊 躇いがちに伸ばされた腕が再びその白い体を捉える。
「・・・君がいてくれるからだ。君が笑ってくれるから、俺はこうしてここにいられる」
裸の胸が重なり、互いの鼓動が心地よいリズムを刻む。規則正しいその音は、闇の中で鳴り響く 雨だれと溶け合って優しい静寂の海を漂っているかのようだった。
「月影さんが亡くなった時、君が壊れてしまうのかと思った。君がまた俺の手の届かないところへ
行ってしまいそうだったから・・・」
―――怖かったんだ。
耳元で繰り返されるのは狂おしいほどに自分を求める彼の声。
心が泣いている。寂しくてつらくて凍えてしまいそうで。
人が人を想うことはけして甘いことばかりではないのだ。一方で拒絶や喪失に怯え、自分の存在を 卑下し、嫌悪感を抱くことさえある。まるで鏡に映ったもうひとりの自分と向かい合っているかのよう に。
今まで与えられるばかりだったから、気づくこともできなかった。
けれどもこれからはきっと違う。どんなことがあっても二度と自分は迷わない。立ち止まったりしな い。
―――だってもうあたしには速水さんしかいないのだから。
そして速水さんも・・・きっとあたししかいない。
だから永遠に離れることはない。この体が生きている限り。この心が在る限り。

まるで自分の想いと呼応したかのように雨の音が一際強まった。
胸の中から顔を上げるとマヤはカーテンに閉ざされた窓へ視線を向け、濃くなった雨の気配に意識 を傾けた。どこか寂しいような心安らぐような。けれども身近にある温もりがある限り、それは安寧へ と繋がっていくに違いない。
「・・・雨、止まないね」
「ああ、こんな日はその方がいい。何もかも覆いつくしてしまうような・・・静かな夜にしてくれる」
「でも・・・本当は嫌いなんでしょう?」
「えっ」
「・・・雨の日がくるといつも悲しそうな顔してるから」
指先で何度も頬をなぞり、包み込むように掌を押し当てる。戸惑うようなその瞳を見つめながら、顔 を近づけ額を合わせた。
「大丈夫・・・あたしがいるよ。今みたいに冷たい雨が降っても苦しい運命が待っていても、あたしが 絶対に守ってみせる。速水さんを傷つけるものはどんなことも許さない」
「・・・マヤ、俺は・・・俺のことはもう―――・・・」
「あなたが本当に好きだから・・・他に何もいらないから・・・ずっと速水さんの側にいたいから・・・そ うさせて欲しいの―――」
指先に暖かいものが触れ、流れ落ちていった。
声にならない声が漏れる。小さく震える睫毛にそっとくちづけ、ありったけの力で抱きしめた。もう二 度と離れることのないように。
「・・・ありがとう」
呟いた言葉はどちらが零したものなのか。その行方を誰も知らない。

ただ今は、お互いの存在を確かめ想いを分け合うだけでいい。

闇の中で降り注ぐ雨がいつしか双方の心を潤し、ゆっくりと満たしていく。そしてきっと雨の記憶が 優しさに変わる時がくるのだろう。


―――貴方に身をまかすことがたとえ、危険だろうが安全だろうが留め金などが在る筈もない・・・ すべて惜しみなくあげる。

だから・・・側に置いていて・・・―――。



<Fin>