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夢路の果て



先の見えない迷路の中で。
私が、私達が
行き着く先はどこなのだろう・・・




彼の細く長い指が、私に触れる。
頬に、肩に、腕に・・腰に。
片時も離すまいとするかのように、彼の温もりは私を拘束する。
その感触は心地良さを伴うけれど、でもそれ以上に感じるのはざらりとした非現実感。
ありえないこの状況に頭は思考を拒否している。
できるのはただ、彼の吐息を受け入れることだけ・・・



「ああ、わかった。繋いでくれ」

ぼんやりとした意識の隅で捕らえた、無機質に繰り返される平坦な音。
何かを受け応えしているような低めの声。
それが電話だと気づくのに数秒の刻を費やした。
彼の左手は変わらず私を抱き、柔らかな呪縛を解く気配はない。

頭上から聞こえる声に刺激されて記憶の淀みが薄らぎ、私は今日という日を遡る。



あの時、視察で訪れた彼へ雑言をぶつける事しかできなかった私は、居たたまれずに稽古場から逃 げ出した。
雨のそぼ降る公園で、迎えに来たこの人から伝えられたのは圧倒されるような激しい熱情。
私を長い間想っていたと、決して誰にも渡しはしないと。
今にも壊れそうな程に思いつめた彼に困惑し震える私を、この人は有無を言わさず屋敷へと連れて 来たのだ―――



「ええ、お約束をしていたのに申し訳ありません。急用が入りまして」

事務的な、意図を悟らせない単調な声音。
この人の冷たい物言いには慣れているはずだった。
けれどこんなに突き放すような軋んだ印象は受けたことがなくて、思わず顔を仰ぎ見る。


「それはお引き受けしかねます。こちらにも事情がありましてね。
理由?・・・それを知りたいんですか?・・・」


「んんっっ!」


電話をしている彼に突然顎を捕まれ、唇を奪われた。
乱暴に吸い上げるその動きに翻弄されて、息が荒れる。
「ん・・ふっ・・・・ぅ・・ん・・・」 
口内に押し入る舌は激しく蠢き、妖し気な水音を立て始める。

「や・・・ぁっ・・!」
あまりの息苦しさに広い胸板を力任せに押すと、思いがけず彼の身体はすんなりと私から離れた。
「はや・・みさん・・なに・・・を・・」
息も絶え絶えに話す私を再び引き寄せ、今度は軽い音を立てて小さな口付けを落とす。

何・・?
不可解な行動に戸惑っていると、彼はスッと目を細め微笑んだ。
溶けない氷を思わせる、温度を伴わない笑み。
嫌な予感に背筋がゾクリと粟立つ。

彼は持っていた電話の子機を、その意味ありげな口元に寄せた。


「こういうことなんですよ。
あなたという人がいながら平気で屋敷に女を連れ込むような男ですからね、私は。
見切りをつけてくださって結構だと言っているんです」


頭の中でシグナルが点滅した。
聞いてはならないと。
これは、あってはならないことなのだと。
それにも関わらず、硬質な声は遠慮なく止めの一言を降り注ぐ。



「さようなら、紫織さん」


プツリと通話の終了を意味する、小さな音がした。



指が・・震える。
違う。
全身が心臓になったみたいに、ドクドクと鼓動を打っている。
胸が痛い。
まさか・・そんな。


「待たせたな、マヤ」


それは引き金だった。
彼の囁きに私の声は封印を解かれる。


「いやぁぁぁぁぁっっ!!!!」

頭を抱え、首をあらん限りに振る。
「嘘っ!嘘っっ!」
信じられない思いに、血が濁流のように体中を駆け巡る。

私は流されるままに、取り返しのつかないことをしてしまった・・っ!?


「何で? 速水さんっ! どうしてこんなことを!
あの人はあなたにとって大事な婚約者じゃないですかっ! 一体どういうつもりで」
「婚約者?」

焦り憤り、混乱した感情をぶつける私の言葉を彼が遮る。
肩を震わせて、さも可笑しそうに笑いながら。

「俺の婚約者は君だろう、マヤ? 言ったはずだな。俺には君だけだと。
君以外の存在など、もうどうでもいいんだよ。」

彼の掌が私の頬を緩やかに覆う。
その仕草は飽くまで優しいのに、まるで電流が流れたかのような痛みがその指先から走った。


「愛しているよ・・マヤ」


愛している。

彼から発するその言葉をどれほど欲したことだろう。
夢に見て、叶わぬ望みだと諦めて・・
そして今、それを与えられているにも係わらず、心は潤うばかりかまた新たな空虚を生み出している。

愛があればいいんですか?
愛という言葉は免罪符になるのですか!?


「だからって、あんな・・」
あんな残酷な幕引きをするなんて、そう言い掛けて言葉が詰まった。
皮肉な意思を含む、まるで精巧に造られた彫刻のような、彼の嫣然とした笑み。
その壮絶さに体が竦み、話すべきことを見失う。


「事実を突きつけるのが一番簡単だろう?」


その刹那、悟らずにはいられなかった。
無駄なのだ。
今のこの人に、どう言ったところで私の思いは伝わらない―――
目の前が暗転し、世界が急速に色彩を失くす。

漆黒の闇の中に、確かにあるはずの小さな光。
それを探したいのに、踏み出した足先から全てが崩壊するようで、動くことができない。


彼が私の名を呼ぶ。
甘やかな熱を帯びた声は、その反面拒絶を許さない。

抵抗することの出来ない私は、泳ぐことを忘れた・・・溺れる魚。




<Fin>