C−A
  真澄は抑えきれない感情のままに思わずマヤを押し倒した。
 と、マヤは思った。何しろ突然、真澄が半裸の自分に襲い掛かってきたのだから、そう思っても何 の不思議もないだろう。いや、むしろ当然だ。咄嗟のことに何がなんだかわからないマヤは、驚きの あまり悲鳴すら上げることができなかった。もっとも上げようと思っても上げられるものではない。な ぜならその悲鳴の出口となるはずの唇は真澄の手のひらによってしっかりと封印されてしまってい るのだから。
「んん〜〜〜!?んむ〜〜〜〜っ!?」
 マヤのくぐもった声が真澄の手のひらと唇のわずかな隙間から漏れてくる。
「しっ!静かに!!」
 真澄は自分の腕の中のマヤの、その小さな耳元に、吐息のような声で囁きかけるのだった。

「マヤちゃん?いる?」
 声とともにドアがガチャリと開けて入ってきたのは水城だった。なんと真澄は彼女のヒールが廊下 にコツコツと響くその音を聞き取っていたのだ。こんなところでカメラまで持って半裸のマヤと二人っ きりでいたのでは、なんと誤解を受けるかわかったものではない。先のマヤの反応を見てもわかる が、こういうことは言い訳をすればするほど返って墓穴を深く掘り下げることになるものだ。誰よりも 真澄の弱味を握っている彼女に、これ以上のポイントを与えることだけは死守したい。ただでさえ
すっかり尻に敷かれているというのに・・・。それが真澄の判断だった。
「おかしいわね?もう着替え終わって出て行ったのかしら・・・?」
 中を覗くと、水城はマヤの姿を見つけられないままその場を去って行った。恐らく他の場所にでも 探しに行くのだろう。再び響くコツコツというヒールの音が遠ざかっていくのを、真澄は耳をそばだて て聞いていた。
 すっかりその音が聞こえなくなった真澄は、安心するとほっ、とため息をついた。
「ぷはぁ!」
 ほっ、とため息をついた瞬間、思わず体の緊張も緩んでしまい、手のひらの拘束も緩んだのだろ う。マヤは頭を振り、力いっぱいもがいてその大きな手のひらから逃れ、ようやく息を大きく吸った。
「あ、すまない、マヤ」
 自分の腕にマヤがいることに急に気がついた真澄は慌ててその手を離した。その隙にマヤは真 澄に背を向け、水城から借りた着替えを身につけた。しかしそれは水城が先ほど真澄のためにと用 意したつなぎの、モスグリーンの方だったのだ。「マスタード色じゃなかったのがせめてもの救いだ な・・・」などとどうでもいいことを考える真澄。いまや二人は色違いの作業用つなぎを、さながらペア ルックのように着こなして向かい合って立っている。もっとも、水城が用意したそれは真澄のサイズ に合わせてあるため、マヤには大きすぎることこの上ないのだが、非常事態であればそれもしかた がないだろう。それに、何を着てもマヤは可愛いではないか。大きすぎるつなぎが華奢なマヤの体 をより一層華奢に見せ、何やら背徳の気配すら感じられる。真澄は自らの心に湧き上がる人には 言えない胸騒ぎを自覚せねばならなかった。たが、勿論そんなことはおくびにも出さない。つなぎの 作業着を着ているにもかかわらず、澄まして立っていた。

 それはそうと。さっきのアレは 聞き間違いだったのだろうか・・・?真澄はふと先ほどのマヤの言 葉を思い返していた。あの時確かにマヤは「ケッコンシテクダサイ」と言った・・・。ように、聞こえた。 「けっこん」・・・。けっこんと言えば結婚だろう。まさか血痕などということはあるまい?だとすれば、 やはりけっこんとは結婚のことだ。結婚といえば、つまりアレだ。このおれがマヤの夫になり、マヤ はこのおれの妻になる、ということだ。二人は互いに「配偶者」となり、法的にも社会的にも互いの 存在を拘束しあう、もとい、束縛しあう、じゃなかった、緊縛・・・は、もっと違う。えーと、ほら、なん だ。そう、責任。責任を負い合う関係になるのだ。これはつまり、とても重大なことだ。人生を左右す る契約だ。その場の勢いで決めてしまってもいい話ではない。ここはやはり大人のおれがしっかり としなくては。大都芸能の速水真澄ともあろう男がうろたえてどうする。よし、そうだ。落ち着け、真 澄。そしてマヤに本当にその気があるのかどうか確かめるのだ。そうだ、確認が大切だ。
「あー、ところでチビちゃん。さっきのアレは、おれの聞き間違いだったのかな?つまりその、“結婚” と言うのは・・・?」
 精一杯のさり気なさを装いながら真澄は、彼の言うところの「人生を左右する契約の確認」をする べく探りを入れてみる。その一言に、最早冷静になってしまったマヤは思わずギクリとしてしまっ た。
 そうだった・・・。すっかり忘れていたけれど、さっきは思わずそんなことを口走ったんだった・・・。マ ヤは再び先ほどその言葉を発した時の思考に戻っていった。
 信じられなかった・・・。あの大都芸能の鬼、冷血漢と噂されるほどの切れ者である真澄が、長年 慕ってきた優しく親切な紫のバラの人が、実はそんな趣味を持っていたなんて・・・。
 マヤの頭の中には一つの言葉がぐるぐると渦を巻いてどんどん脳内を占領していく。その加速度 を増していく渦の速さとは無関係に、はっきりと読み取れるその言葉。「出歯亀」・・・。ではもしかし たら自分をいつも援助してくれていたのは、あれは何らかの下心があってのことなのだろうか?そう だとしたらイヤ過ぎる。だがそれ以外どう考えろと言うのだ。思えば常識的に考えても度を越した贈 り物が多すぎたではないか。例えば洋服一つとってもそうだ。ドレス、コートはおろか制服まで も・・・。男が女性に服を贈るのはそれを脱がせる下心があるからだと、そう言えばどこかで聞いた 気がする。しかしそれでは男として、いや、最早人間として最低ではないか。知りたくなかったこと だが、恋焦がれた彼が、そんな人だったと偶然知ってしまった。それなのに・・・。
 そんな相手であってもどうして自分は嫌いになれないのだろう。よく見れば、日ごろスーツを隙無く 着こなしているスマートな姿とは違い、なぜか今は作業服姿で首にはタオルまで巻いているではな いか。こんな変装までして、隙あらば女性のあられもない姿を撮影しようとカメラを持ち歩くような、 そんな男に、まだ誰にも指一本許したことさえないこの肌を、上半身だけとは言え見られてしまった のだ。それなのに。例え視線であってもカメラであっても「汚された」と強く感じるのに。それでも彼を 心底嫌いになれないなんて・・・。どうしたらいいのか、自分のことながらわからない。だが一つだけ わかっていること。それは、彼をこのままにはしておけないと言う事だ。今日は偶然見つけたのが 自分だったからよかった。だがこんなことを続けていればいつか他の人間にもばれてしまうのでは ないか。ましてここは華やかな芸能会社。若く美しい女性たちが大勢いる。出歯亀真澄の欲求を刺 激するにあまりあるこの状況では、それも時間の問題であろう。しかしこれは犯罪ではない か。・・・・・・・・・・・・・あの、日ごろクールに構えている真澄の写真が「盗撮!」、「隠された欲望」な どの言葉と共に週刊誌の表紙を飾ったり「あの人のことはよく知っていたつもりですが、まさかこん なことをする人だったなんて・・・。やはり忙しすぎたストレスが原因でしょうか」などの言葉をしたり 顔で喋るコメンテイターと一緒にワイドショーを賑わせたり、頭からコートを被り警察の車に乗せられ る映像と共に隅の方に丸く切り取られた彼の顔写真が映るニュース映像を見ることになるなんて絶 対にイヤだ。それだけは阻止せねばならない。  結婚しよう。それしか道は無い。自分が彼と一緒 になって、なんとかして彼の性的嗜好を変えなくては。マヤは熱い使命感に燃えていた。たとえそ れが間違った情熱であったとしても、若く世間知らずな彼女の咄嗟の判断であれば誰もそれを責め ることなどできないではないか・・・。
「はい。確かに言いました。責任を取って、あたしと結婚・・・」
「待て」
 マヤが一世一代の決心の末に口にした言葉だと言うのに、真澄はそれを封じてしまった。きょとん と見つめるマヤに妖しい、いや、いっそ怪しい笑顔で真澄は話しかける。
「そこから先はおれの台詞だ。北島マヤさん、おれと結婚してくれますか?」
 女性にプロポーズされるなど男としてみっともないではないか。ここはやはり大人のおれがしっか りとリードして決めねばなるまい。余裕綽々でそんなことを考える真澄。だが彼のその余裕が実は 最初にマヤからプロポーズされたことに由来していることには、どうやら気がついてはいないよう
だった。
「はい・・・」
 たとえどんなに異常な性的嗜好の持ち主であろうとも、恋焦がれた男性からのプロポーズはやは り嬉しいに決まっている。マヤは頬を染めてうつむいてしまった。その姿を見て、やはり思わず顔を 赤らめてしまう真澄。資料室につなぎを着た男女が向かい合って頬を染めている光景は人が見れ ばかなり異様に見えるだろう。だがそんなことはどうでもいい。真澄は今、天にも昇るほど嬉しいの だから。
 だが彼は知らない。自分に謂れのない疑いをマヤがかけていることを・・・。知れば激しくショックを 受けるだろう。だがそれは間違いなく、いずれ彼の知るところとなるのだ。その時が来るまで、しば しの幸福に浸れよ、真澄。



<Fin>



(C−Aエンディング担当:硝子様)