42巻 その後・・



先日の運河の一件にて現場に遭遇しながらも桜小路に先を越され、マヤを助けること
ができず真澄の心中は後悔と苦悩で満ち溢れていた。
それにとどめをさすかのように聖から送られてきた桜小路の携帯に入っていたマヤとの
ツーシヨット写真に衝撃を受け、もはや精神の限界を超えようとしていた。

―――大都芸能社長室前。
「もしもし・・・?速水社長・・・?もしもし・・・?」
重要な取引相手からの電話を受けた水城は、社長室に直結する内線ボタンをプッシュし た。しかしいくら待てども真澄からの応答はない。
(おかしいわ・・・。真澄様、いったいどうなさったのかしら)
不審を覚えながらも、水城は呼びかけを繰り返した。その時だった。

―――ガシャーン!!

何かが割れる激しい物音が室内に鳴り響いた。
「真澄様!」
我を忘れて水城は扉を開け、社長室に飛び込んだ。

(え・・・っ)

室内は異様な空気が漂っていた。

砕け散ったカップとソーサー。
染みのように広がったコーヒー。
散らばり落ちた何枚もの写真。

まるでそれらから目を背けるかのように、紫煙を燻らせ窓の外に広がる高層ビル街を見つ める真澄の姿があった。わずかに覗く横顔からは、彼がかつてないほど色を失くし動揺し ている様がありありと窺えた。

重なり合う何枚ものフィルムの中には、屈託のない彼女本来の素顔が余すことなくすべて 収められていた。まだあどけなさの残る無防備な寝顔までも。

(マヤ・・・!)
狂うほど望んでもけして得ることのない輝くばかりの彼女の笑顔が、フィルムの向こう側で 太陽のように咲きほころんでいる。手に届くような距離で、しかし永遠に近づくことのでき ない領域で。
そしてその彼女の傍らには一真役を務める役者、桜小路優の姿が影のごとくあった。

―――常に彼女の笑顔が向けられる方向へ。

抉られる様な鋭い痛みが胸を貫いた。息もつけないほどの苦しみと哀しみが交錯し、まと もに思考する力すら奪うようだった。
そして水城もまた懊悩する真澄の背中を見つめながら、嵐のように吹き荒れるその心中を ひたすら案ずるのだった。

「真澄様」
何度目かの呼びかけに、真澄はやっと振り返った。
「ああ、水城君か。すまない。少し一人にしてくれないか」
「・・・真澄様。ひどい顔色ですわ。少しお休みになられては」
「いや、それには及ばない。午後のスケジュールを進めてくれ」
「勝手なこととお叱りを受ける覚悟で申し上げますが、午後からのスケジュールは白紙で ございます」
意外な返答に真澄は眼を見開いた。
「何!それはどういうことだ」
「申し訳ありません。実は関連企業との会合の予定が先方の都合で中止となり、それに 合わせて今日のスケジュールを変更しなければならなかったのです。そこで私さしでがま しいことながら午後の予定をすべてキャンセルいたしました」
「なぜだ!どういうことかはっきり言いたまえ!ことと次第によっては俺は君への処罰を考 えなければならない!!」
燃えるような真澄の眼を水城はたじろぎもせず見つめ返した。自他共に認める仕事の鬼、 冷血漢の異名を取る上司を前にしてもその毅然とした態度は少しも怯むことはない。
透徹した鋭い眼差しは何もかもを見通すかのようで、どこか危うい均衡を孕んでいる。そし てどのくらいの無為な時間が過ぎた頃だろうか。
今や全幅の信頼を寄せているといっても過言ではないこの有能な秘書に対して、感じる はずのない緊張感が自分の中で芽生えていることに気づき、真澄はかすかに眉をひそめ る。
そんな彼の心中を見透かすかのように、水城は冷めた声で答えた。
「・・・最近のあなた様は明らかにお疲れのご様子でした。それは私だけではなく、他の聡 い何人かの者も気づいていることです。社内外の人間に隙を見せる事など、大都芸能の 速水社長には許されない振る舞いであると僭越ながら考えました。それともう一つ、上司 の健康管理が疎かになることも社長秘書にあるまじき失態であると判断したからです」
潔いといっても良いほど利の通った、そして身勝手に過ぎる言い分だった。
思い上がりも甚だしい。自分の立場もわきまえない不遜な言動の数々。
しかし賢明な彼女が叱責を覚悟の上で、午後のスケジュールを中止した真の理由はどこ か曖昧さを感じさせた。けれどもわずかの間に疲弊した心身が休息を渇望していることは 自分でもわかりすぎるほどわかっていた。
どうせこのまま仕事を続けても、ビジネス上で必要不可欠なものは今は何一つ取り戻せ ないだろう。ひとつの判断ミスが連鎖反応的に多大な損害を引き起こしても不思議ではな いこの世界では、これもまたリスク回避のために必要な手段なのだ。そう自分自身に言い 聞かせながら、真澄は吐息をついた。
「―――わかった。今日のところは、君の判断にすべて任せることにしよう。せっかくもらっ た長い昼休みだ。せいぜい羽を伸ばさせてもらうことにするよ」
ようやく口に出た言葉は自分でも思いがけないほど、穏やかなものだった。
水城はほっとしたように表情を緩め、静かに微笑んだ。

「-----それでは真澄様、これからどうなさいますか?」



A やはりマヤのことが気になる・・・キッドスタジオにマヤの様子を見に行こう。

B そういえば、今日開催のブライダルフェアの招待券をもらっていた。
  先日の埋め合わせに紫織さんを誘おう。

C とりあえず、自分が壊したティーカップの後始末をしようか。
  水城くんの視線が痛い・・・。