「すまない。水城くん。箒と塵取りを貸してくれないか?」
気まずさを取り繕うかのように、真澄は視線を逸らしながら尋ねた。
「は?箒と塵取りでございますか?一階の用具室に置いてあると思いますが・・」
怪訝そうに顔をしかめながらも水城は忠実に答えた。
「そうか、君悪いが・・・」
そこまで言いかけて、はたと真澄は口をつぐんだ。自分を見つめる水城の視線が一層険し くなったからだ。自慢ではないが、この類いの女の視線(いわゆるジト目)は得意とはしな い。なぜだか後ろめたい気持ちにさせられるからだ。
意味もなくそわそわし出す真澄をますます疑わしい目で眺めていた水城が、突然ぽんと 手を打った。
「真澄様!」
「な、何だどうした!俺はまだ何も言ってないぞ。俺の変わりに残務整理をしなければなら ない君にまさか掃除まで押し付けようだなんて・・・」
「やっとわかりましたわ!真澄様の思うところが!」
「え!?」
思いもかけない言葉に真澄はたじろぐ。そんな真澄に水城は輝くような笑顔で迫ってき た。
「真澄様、この機会に社の内部調査を行うつもりなのですね!」
「・・・・・・・・・・・なぜ?」
「いいえ、真澄様。何も仰らなくてもこの水城にはわかります!近頃、我が社の新プロジェ クトに関する極秘情報がリークされているとの噂をすでにご存知なのですね!さすがは真 澄様ですわ!」
「・・・(それはすでに知っているぞ。といっても聖から得た情報だが。しかもその犯人もル ートも封鎖してある。しかしここでそれを明かすわけにはいかない。あくまで奴は影の存 在・・・誰にも知られるわけにはいかないんだ)」
白目になって心の声で答える真澄だったが、もちろん水城に届くはずはない。彼女は自分 の上司の有能さに改めて感動を覚えている真っ最中なのである。
「社長という身を偽り、清掃社員を装って社内部の事情を探ろうだなんて・・・まさに社長の 鑑ですわ!!ああ、そんな真澄様の思惑に気づきもしなかった我が身が恥ずかし い!!」
「いや、あの水城君?そうではなくてだな、俺はただ単に壊したカップの後始末をしよう と・・・」
「まあ!こんなことをしてはいられませんわ!さっそく準備に取り掛からないと!」
そんな水城のテンションはますます上がっていくばかりだ。ハイヒールを履いているにも関 わらず、信じられない速度でどこかにダッシュして行ってしまった。後に残された真澄はた だただ唖然とするばかりであった。
やがてその目の前に、某有名デパートの紙袋が差し出された。
「お待たせいたしました・・・はあはあ」
「・・・何だ、これは」
「ぜえぜえ・・・つなぎの作業服ですわ。お顔を隠すための帽子と眼鏡もここにご用意して おります。ああそれと、決定的証拠を掴むためのデジカメとMDもぬかりはございませ ん!」
一体どこでどう運命の歯車が狂ってしまったのか・・・。
あれよあれよという間に、かの忠実な影の存在以上に怪しさ全開の清掃社員が誕生し た。
「まあ!よくお似合いですわ!どこからどう見ても立派な『掃除のおじさん』ですわっ
!!」
この場合、本気でキレても正当な判断として許されるであろう。
「・・・・・・水城君」
「何でございましょう?ま、もしかしてその色がお気に召しませんでしたか?真澄様はブル ーがお似合いになると思ってチョイスいたしましたのに・・・ではこちらのモスグリーンとマ スタードではどちらがお好みでしょうか?」
「だからそういう問題じゃないっっっ!!!」
「あらあら私ったら。大事なものを忘れておりましたわ」
そんな真澄の怒りもまったく意に介さず、水城はガサガサと紙袋の中を探った。そしてにっ こり微笑みながら、帽子と眼鏡をすばやく真澄に装着した。
「これでもうバッチリですわv誰も真澄様だと気づく者などおりません!!」
自信満々にそう言い放つと、おもむろにどこかから全身鏡を運んできた。
いやいやながらもちらりと鏡に視線を走らせた真澄はそのままフリーズした。
それは昔なつかしい中折れのパナマ帽を被り、ある喜劇役者が愛用したという黒縁の丸 眼鏡をかけた自分の姿・・・しかし遥か昔にどこかで見たようなデジャ・ヴを感じる・・。
これは・・・。
これはもしかして・・・!!
「さあ、真澄様!これをお持ちになってくださいまし!!」
嬉々として手渡されたもの、それは紛れもなく『オロ○ミンC』であった!
「今時こんなネタを知っている奴がいるかっ!!この俺に懐かしの看板を地でやれという のか!?」
「いいえ!真澄様!!そのお姿を誰が忘れる事ができましょうか!?たとえヨ○さまやタ ッ○ーといえども本家本元のインパクトには太刀打ちできませんわ!!さあ、堂々と胸を お張りになってくださいまし!行きますわよ!元気溌剌―――っ!!!」
「オロナ・・・じゃないっ!水城君、頼むからいい加減正気に戻ってくれ!!」
そう言うと、やおら真澄は手にした『オロ○ミンC』を水城の口に突っ込んだ。シュワシュワ と小気味よい炭酸の弾ける音をたてながら、彼女は小瓶の中身を残らず嚥下する。常人 ならわかることだが、この手の健康飲料を一気飲みしてムセない人間は稀有である。しか も興奮状態の上に、勢いですべて飲みつくしてしまった水城が平気でいられるはずはな い。
白目青筋滝汗というこの世界ではショックを意味するところの状態を体現した水城はあえ なくその場に失神した。
ある意味、今まで彼女と過ごした中で一番濃密で激しい時間であった。
真澄は肩を大きく落とすと、ふうと息を吐いた。とりあえず倒れた水城を手近のソファに寝 かせると、改めて鏡の中の自分に見入った。
(同じ眼鏡&年代という共通点があるとはいえ、微笑の貴公子ヨ○さまとのこの落差はど うだ・・・しかもタッ○―のような若々しさも爽やかな魅力も持ち合わせているわけでもな い・・・俺は世間でいうところの流行の男からこんなにもかけ離れていたのか・・・ああ、マ ヤ・・・こんな俺では君に嫌われて当然だ・・・)
妙なところで激しく落ち込んでいる真澄。
しかし気を取り直すと、紙袋の底に入ってあったタオルをびしっと頭に巻きつけた。そして 悩んだ末、ロイド風眼鏡はそのままにした。
一見すると『エンタ』に出てくる若手お笑い芸人のような感は否めないが、この際文句はい えない。
(もうこうなったらやけくそだ!社の内部事情でも何でも探ってやろうじゃないか!ついで に社員の俺に対する意識調査もしてやる!合格基準に達していない奴は皆クビだ!!)
滅茶苦茶な発想ながらもちゃっかり社内の反乱分子に対する制裁までくらわそうとしてい るあたり、速水真澄が速水真澄たる所以であろう・・・。
こっそりと社長室を忍び出た彼は、途中でモップもゲットし身も心も『掃除のおにいさん』に 成りきって社内の情報収集に精を上げていた。
やはりというか何というか、社内の真澄に対する評価は予想していたラインを遥かに下
回っていた。
いわく仕事はできるが強引で専横だ。
人を人とも思わない冷血漢である。
顎の成長が最近著しい・・・etc。
といった辛辣な意見が過半数を占めていた。
ある程度予想していた結末とはいえ、自社の部下たちから届く容赦ない誹謗中傷の嵐に さすがの彼も落ち込みかけていた。そしてとうとう調査を中途で切り上げて、しおらしく廊 下のワックスがけなどを行っている時だった。
「こんにちは、いつもご苦労様です」
弾むような可愛らしい声と甘いフローラル系の香りがふいに真澄を取り巻いた。
途端に心臓が跳ね上がりそうになり、あわてて顔をうつむける。ちらりと横目で確認する と、やはりそれは彼の長年の想い人であった。
大きな紙袋を抱えたマヤは走ってきたためなのだろうか、少し上気した頬をしていて潤ん だような大きな瞳がきらきらと輝き、今すぐ押し倒してしまいたいくらい愛らしかった。
「・・・あ・・・ご、ごくろうさまです」
どもりながらも小さく返事をしてしまう真澄。どのような状況であれ、彼女から声をかけられ て無視できないところが片思いの哀しい習性である。
しかしもともと警戒心が無に近い上に、足元のロープにも気づかないほど注意力も散漫し ているマヤのこと。目の前の掃除夫が愛しい速水真澄その人だと気づくはずもない。
「ありがとう。『おじさん』も頑張ってね!」
眩しい笑顔を見せながら、最大級の爆弾を真澄に投げ落として去っていった。
(・・・マヤ、俺にとって君はすべての喜びでありすべての悲しみでもある・・・それが今は 果てしなく呪わしいよ・・・)
つまらない心の格言を吐きつつ、真澄はモップを手にしたままマヤの軽やかな後姿を見送 るのだった・・・。

さて・・・。
一通り社内の廊下を拭き終え、また内部調査も潮時を見た頃。
真澄は心身ともに疲れ、やつれ果てていた。
(疲れた・・・こんなことならさっさとうちに帰って昼寝でもしておけばよかった・・・)
しかし後悔先にたたず。がっくりと肩を落としたまま、歩いているうちに喉の渇きをおぼえ た真澄は自販機の前に立った。
もちろん買ったのは『オロ○ミンC』だった。
さてどこでひと休憩しようかと真澄は思案した。久しぶりの肉体労働だ。一服もしたい。し かしあまり堂々と休んでいては不審を買うし、何より自分自身も落ち着かない。
どこか一人でゆっくり休める場所はないものか・・・。
あれこれ考えた後、真澄は今は使われていない古いフィルムなどを収めた資料室に行くこ とにした。あそこならば誰の目につくこともない。
早くも安堵のため息をつきながら、資料室へ向かった。そして施錠されたドアにマスター
キーを差し込み、扉を開けた。
タオルと眼鏡をはずし、汗で張り付いた髪を掻き揚げながら中に入る。
均一に並んだスチール製のラックの間をくぐり抜け、真澄は奥の壁にもたれるように背を 預け、『オロ○ミンC』を飲み干した。
うまかった・・・労働の後のこの飲み心地は最高だ。上○彩の爽やかな声がどこかで聞こ えてくるようである。しかし自分はやはりマヤがいい・・・。
ゆっくりと飲み干すと真澄は次にポケットにしまい込んだ煙草を取り出しかけて、体をこわ ばらせた。
何冊ものファイルやフィルム類の隙間から、白い背中がちらりと視界に入ったからだ。
ごくりと唾を飲み込むと、真澄はその隙間に顔を近づけた。
(マヤ・・・!!!なぜ君がこんなところで!?)
そう白い背中を見せ、着替えをしている少女。それはまぎれもなくマヤだった。
突然のことに動揺し、真澄は思わず後ずさった。その時。
コツン。
動揺のあまり、手にしていたライターが床に落ちた。
「誰っ!!」
悲鳴にも似た叫び声が室内に響き渡った。逃げ場はなかった。観念して姿を現すと、マヤ が驚愕の表情で自分を見つめていた。
「速水さん!?どうしてあなたがこんなところでいるんですか?」
「いやあの、ちょっと探し物をしていてね・・・君こそどうしてここに?」
「あたしは月影先生からお使いを頼まれたんです。この間のお見舞いのお礼を・・・って。 そしたら水城さんが『オロ○ミンC』くれたの。でも飲もうとしたら、吹き出しちゃって・・・着 替えも貸してくれたんですけど、トイレがいっぱいだったからここで着替える事にしたんで す。ここなら誰も使わないし、鍵もかかるから安心だって・・・」
「そうだったのか・・・君も『オロ○ミンC』を・・・いやそうじゃなかった。それは偶然とはいえ すまないことをしたな、ちびちゃん。それじゃ俺はもうこの辺で退散するよ・・・」
「待ってください!!」
思わぬ制止の言葉に真澄は再びフリーズする。脱ぎかけたブラウスを手にしたマヤがこち らに近づいてくる。その肌の白さに、全身の血が沸いた。
「速水さん・・・どうしてカメラを持ってるんですか?」
言われて初めて彼は作業服の胸ポケットから半分はみ出たデジカメに目をやった。
「ち、違うんだ。マヤ、これには深い理由が・・・」
「知らなかった・・・速水さんがそんな人だったなんて・・・本当は誰よりも優しい温かい心を 持った人だと思っていたのに・・・」
いつのまに信号は青になっていたのかと感動を覚えるより先に、涙ぐんだマヤがさらにに じり寄ってきたので真澄は動転する。間近で半裸のマヤを見て、もはや彼の理性もカウン トを数えている状態だった。
「速水さん・・・」
「な、何だ?ちびちゃん」
「責任、取ってください」
「え?」
思わず聞き返した真澄に、真っ赤な顔をしたマヤが叫んだ。
「こんな姿を見られたうえに写真まで撮られたんじゃ、あたしお嫁にいけません!!責任
とって速水さん、あたしと結婚して下さい!!」
思いもかけぬ逆プロポーズだった。
まさに棚からぼた餅状態。
しかも目の前には夢にまで見たマヤの肌が・・・。
真澄は抑えきれない感情のままに・・・



A 思わずマヤを押し倒した。

B 「わかった!責任を取ろう!!」と叫んだ。