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真澄は思わず声を上げ・・・―――
彼女を強く抱き締めた。彼の小さな小さな、想い人の体を。
彼に至高の幸福と苦悩を、限りなく与えてくれる。そんな彼女の小さな体を・・・
「ばかなことを言うな・・・」
それ以上の言葉が見つからない。
マヤが、最愛の女が傷付いている。
なのに不甲斐ない自分は、ただ彼女を抱きしめることしかできない。
少しでも濡れないように、彼女を雨から守ることが、彼にとっての精一杯だった。
強まる雨足が、容赦なく彼らを打ち付ける。じっとりと濡れた衣服がまとわりつく。
冷たい雨は、確実にふたりの体温を奪っていく。
なのに、彼らの中の熱はそれに反比例し、上昇していった。
真澄は無言でマヤを抱きしめ続ける。
その腕に込めた力が強くなると、マヤはびくりと体を弓なりにさせた。
そして、よりいっそう彼に全身を預ける形となる。
マヤは真澄の拘束が苦しいのか、時折荒い息を吐き出す。
それに気付いた彼は、その拘束する力を少し緩めた。
その瞬間彼女は、ほうっと溜息とも吐息ともつかぬ息を、再び吐き出した。
熱い息が真澄の胸元に当たり、その度に疼く感情を抑えるのに必死だった。
真澄はマヤの本心を知っても、それでも尚且つ自分の想いは告げられずにいた。
望んでも望んでも得られないと、半ば自棄になっていた。
自分の人生を呪ってもいた。
いつも、いつも、自分は誰かに、何かに支配されていた。
それは、きっとどんな地位にあっても変わらないだろう。
それは義父であり、会社であり、そして何より・・・真澄は自身に枷を嵌めていた。
彼にすら見えない、枷を・・・
――その枷を解放してもいいのだろうか?今、この場で。
――彼女を奪っても・・・いいのだろうか?
――こんな薄汚い俺にでも、マヤの愛を乞う資格があるというなら・・・
真澄の腕の中、小刻みに震えるマヤに、よりいっそうの想いがつのる。
そっと体を離し、その瞳を覗き込む。
その瞳はほんの少し躊躇を見せ一瞬翳るが、やがて愛しさを湛えた光を宿しはじめる。
一心に真澄を見つめるマヤの両手は、おずおずと彼のスーツ越しの腕に伸ばされる。
遠慮がちに、それでもしっかりと彼を拘束しようとしていた。
その縋るような行為に、真澄は愛しさ以外の感情を見出せなかった。
――・・・愛している・・・君を・・・
自分の想いの臨界点を瞬時に悟った。
今まさに胎動を感じ、押さえ切れないマヤへの愛情は火山の溶岩の如く、その流れ行く道筋は、予
想することすらできなかった。
それでも信じたい。きっとその道は自身をマヤへと導いてくれるだろうと・・・
永遠の彼の想い人へと・・・
そう信じたい・・・
「マヤ・・・」
切ない響きを放つ、たったひとりの愛しい少女の名を呼ぶ。
切なくて、切なくて・・・彼女の温かさに縋ろうとする自分に眩暈すら感じる。
大都の名も、地位も立場も、今の彼には無意味だった。
この愛が成就することのみに、人生の全てを委ねても構わない!!
真澄はマヤの肩を引き寄せ、初めて自分の感情の赴くままに、その唇を奪おうとした。
――紫のバラの人が、たとえどんなひとだって、あたしきっと好きになれるわ!
きっと、とても好きになれるわ!
その直後。
いつか聞いたマヤの言葉が、突然真澄の脳内にフラッシュバックする。
ほんの瞬間の邂逅に、彼の動きがピタリと止まった。
途端に全身の熱が奪われ、頭が妙に冴え渡った。
そして、徐々に脳内が活性化するのと同時に、極論ともとれる結論に達した。
――マヤは動揺し、混乱しているのだ・・・
自らの考え自体が過ちだと固く信じ、拳を握り、唇をぐっと噛みしめた。
マヤを心底愛するなら、どんなに辛くとも全てを受け入れ、そして彼女にも悟らせなければならな
い。
恋に恋するという言葉が、今のマヤにはぴたりと当てはまる。
真澄が紫のバラの人本人だと知った彼女は、彼と彼の影を同一視している。
全ては彼女の思い違いだと告げて、立ち去ればいい・・・
それは彼にとって、この上もなく辛い決断となる。
「速水さん?」
怪訝な顔付きをするマヤの体を、真澄はゆっくりと離す。
「何を弱気になってる。まったく君らしくないな」
――自分にとって都合のいい夢を見るとは・・・俺はどうかしている。
「俺の結婚と紅天女に、何の関係があるんだ?」
――今まで忌み嫌い、俺を憎んできた彼女が、ましてや母親の仇である男を・・・
こんな俺を、愛する筈がない。
「君への行為も、勘違いをするな・・・君に確かな才能を見出したからこその援助だ。
気にする必要はない。どんなことでも利用するのが芸能界だ」
――紫のバラの人だからこそ、マヤは俺に愛を告げ、身を委ねるのだ。
「君が選ばれた場合にでも・・・いくらでも手はあるからな・・・きっと君は俺に恩義を感じ紅天女を差
し出すだろう・・・」
――見るだけでも辛い夢は・・・早々に断ち切るのが一番だ・・・
見る間に青ざめるマヤに、真澄は冷酷な言葉を浴びせ続けた。
心の軋みをおくびにも出さず、今まで通りに無慈悲に・・・全ての未練を捨てる為に。
何故、こんな時だけ饒舌になるのか・・・
肝心な言葉は奥にしまい込まれたままだというのに。
真澄は結局、嫌われ、憎まれる言葉しか口にできない。
優しく諭せば、今度は自分の精神のバランスが崩れ、やがては心情の露呈に
繋がることだろう。それだけは・・・避けたかった。
もう彼は、壊れそうになる自分自身を支えるので精一杯だった。
もう雨か涙か分からないくらいに、マヤの表情は濡れそぼっていた。
「は・・・やみさん・・・本気ですか?本気で言ってるんですか・・・?」
押し殺したマヤの声が、雨音にかき消されることもなく、真澄の耳に届いた。
「あたしに紫のバラを贈り続けてくれたのは・・・本当にそんな気持ちからなんですか?」
「君は・・・俺を善人だとでも思っていたのか?」
「あたしは・・・あたしは速水さんが、本当は優しい人だって・・・そう思ってました・・・
だから、だからこそあたしは、あなたを・・・」
「君の中で俺を美化するのは勝手だが、その前にやることがあるだろう?」
言い募るマヤの言葉を遮り、真澄はついっと背を向けた。
哀願する彼女の姿から、絶望を宿したその瞳から・・・目を背けたかった。
敬愛する紫のバラの人が真澄と知り、落胆もしただろう。
それでも懸命に彼を愛そうと、努力をしたのだ。
そのままの真澄を、マヤが愛する筈がない。
所詮、自分は“紫のバラの人”という、彼女の憧れの人物の影にすぎない。
「こんな場所で言い争いをしている暇などないだろう?」
「速水さん・・・」
「・・・紅天女を掴め、チビちゃん。その手でな・・・闘って・・・勝ってみせろ。その時こそ、君と俺との
新たな闘いが始まる・・・」
「は・・・やみ・・・さん・・・」
幾度も真澄を呼ぶマヤの声が、天上人の調べの如く聞こえる。
愛して愛して止まない女。
気も狂わんばかりに渇望した女。
それでも・・・本心から彼女が自分を愛することはないだろう・・・
真澄の頭上からは、しとどに彼を濡らす無情の雨が降り続けた。
マヤは真澄の言葉が充分消化できないままに、それでも足掻くように言葉を探した。
彼を、そして自分自身を納得させる答えを・・・
しかし、背を向けたまま立ち尽くす真澄に、マヤはなす術もなかった。
上手く口が回らないのはいつものことだが、不器用な自分をこんなに恨めしく思ったのは生まれて
初めてだった。
どんなに彼が言葉を偽っても、彼女にはわかっていた。
真澄は本当は、底が見えないくらいに、そして誰よりも優しい男だということを。
昔は気付かなかった。辛辣な物言いの中に見え隠れする、彼の優しさに・・・
――ひとりの女性として愛されなくてもいい・・・せめて女優としてあなたの中で最高の存在になろ
うって・・・
先刻、真澄に告げた心の叫び。
それは真実ではなく、自分を納得させる為に用意した言葉。
本心は愛されたかった。ひとりの女として・・・
―― やはり、速水さんが気に掛けているのは女優のあたし。あたしの恋は、きっと一生叶わない。
いっそ、それならば・・・
女優としてだけでもいい、彼に愛されたい・・・
「速水さん、教えてください。最後に言った言葉、“紅天女を掴め”って・・・それは紫のバラの人とし
ての言葉ですか?それとも・・・?」
するりと口から毀れ落ちたのは、言いようもなく虚しい響きを伴っていた。
それに反応するように真澄の肩口がわずかに揺れ、やがてゆっくりと振り向いた。
「・・・もし、そうだと言ったら、君はどうする?」
真澄の鋭い視線を受け、それでもマヤはふたりの離れた距離を縮めようと、一歩づつ彼に向かって
歩き出す。
どうする?考えるまでもない質問をする。彼は何にも分かっていない。
マヤにとって紫のバラの人は絶対なのに・・・
やがて真澄の前に立ったマヤは深く息を吸い込み、彼の目を見据え、柔らかく微笑む。
「もし、そうだったら・・・なります。紅天女に」
「チビちゃん・・・」
「必ず勝ってみせます・・・速水さん、いいえ紫のバラの人」
「君は・・・まさか・・・?」
「感謝しています。言葉になんかできないほど、あなたに感謝しています。ここまで頑張ってこれた
のも、みんなあなたのおかげです」
「チビちゃん・・・」
マヤは瞳をゆっくり閉じ、両手を祈るように胸の前で組み、そっと彼の前に佇んでいた。
真澄はマヤの言葉に押し流されまいと、必死に自分自身を支える。
そうでなければ、再び彼女を抱きしめ、そのままどこかに連れ去りたくなる。
「・・・なんと言われても、あたしにとってあなたは、この世で唯一無二の存在なんです」
「マヤ・・・」
「酷いこともたくさん言いました。あたしを、許してくれなんて言えません。でも・・・」
閉じた瞳が再び開く。儚げな表情が雨に消え入りそうだった。
「約束しました。あたし、紫のバラの人に、速水さん、あなたに・・・きっと紅天女になるって。だか
ら・・・最後のわがまま・・・お願い・・・これが最後です・・・」
スローモーションのように、真澄の胸に倒れこむマヤ。
「これからもあたしを見ていて下さい。必ず紅天女になります・・・あたし・・・あたし・・・」
声が滲む。途切れた言葉の先は・・・言わずともわかってくれるような気がする・・・
――あなたの為に・・・紅天女になります。あなたがこれからもずっとあたしを見つめ続けてくれるの
なら。あたしは、どんな茨の道でも歩いて行ける・・・
これが二人の出した答え。二人の辿り着いた終着点。
互いが、互いの想いからすれ違う関係が、これからも続いていく。
腕の重みが、そのまま真澄にとってのマヤの存在の大きさ、重さだった。
彼の全ての想いを込めるその腕は、気付く間もなく彼女を強く抱きしめていた。
「・・・わかった・・・約束する。頑張れよ・・・チビちゃん。ずっと見ているよ、君を・・・
これからも・・・ずっと、ずっとだ・・・」
「速水・・・さん・・・ありがとう・・・本当にありがとう・・・」
見上げると天からの恵みが、先刻と変わらずに彼らに降り注ぐ。
辺りを曇らすそれは、より強く彼らを打ち付ける。
――このまま消えてしまうことができるのなら・・・どんなに幸せか・・・
真澄の頬を伝う熱いものは、雨と共に流れ落ち、消えていった。
それでもこの想いは、きっと生涯、消えることはないだろう。
色褪せることもなく、永遠に彼の胸で幻の如く煌き続ける。
全てと引き換えにしても得たいと思った、マヤという少女。
――愛することを、やめられるわけもない。
愛し続けるだけだ。たとえ自分が結婚しても、たとえ彼女が他の男と結ばれても。
不器用だと思う。しかし、それが自分にできる唯一の愛し方だった。
真澄はマヤの体をそっと離すと、優しく微笑んだ。
「これ以上、雨に濡れるとよくない。送っていこう・・・」
「いいえ、速水さん。大丈夫です。一人で帰れます」
「しかし・・・」
「いいんです・・・いいの・・・ありがとうございます・・・」
ふわりと真澄の体から離れたマヤは、ぺこりとお辞儀をした。
「じゃ、約束ですよ?これからも、あたしを見ていて下さいね」
「・・・約束する・・・」
「ぜったい・・・ですよ?」
「君もくどいな。俺は約束を守る男だ」
「ふふ、そうでしたね」
――女優としてだけでもいい・・・あなたに愛され続けたい・・・
――どんなことがあっても、俺は君を見つめ続ける・・・
短いやり取りに、ふたりは全ての想いを注ぎ込む。
「それじゃ・・・さようなら・・・」
マヤは体を翻し、雨の中、一目散に駆けていく。
真澄はその姿が小さく、そして見えなくなるまで・・・見送った。
彼女が去った後は、空間までもが寒々しく、一気に体温まで下がってしまったようだ。
互いの胸の内など知る由もないふたりは、再び互いの心に枷を嵌めた。
誰にも見えない、永遠の枷を・・・
<Fin>
(A−Aエンディング担当:アイリーン様)
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