「やめ――――い!北島!!何だ!その演技は!!やる気あんのか!!」
キッドスタジオの稽古場に足を踏み入れた瞬間、轟くような怒号が鳴り響いた。
水を打ったように静まり返る室内で、すみませんと小さく呟くような声が聞こえてきた。聞 き間違いがあろうはずはない。彼女の声だ。しかしまずいところに出くわしてしまっただろ うかと思わず廊下に戻りかけた時、
「よお、若旦那じゃねえか。どうしたこんな時間に珍しいな。早くも敵前視察かい」
豪快な声に足止めを食らわされた。
場を離れるきっかけを失い、仕方なく真澄は稽古場に足を踏み入れた。
どこか古めかしい作りの稽古場の中央、大勢のエキストラに囲まれてうつむいていた一人 の少女が弾かれるようにこちらを振り返った。
「―――速水さん」
小さく自分の名前を呟かれただけで、冷え切っていた胸のうちがじわりと温まっていくの がわかった。こんなにもたやすく自分の心を揺さぶる存在であることを知らしめる愛しい少 女。しかし叶わない想いを永遠に抱えて生きていかなければならない苦しみをも同時に与 える彼の残酷な女神。
「やあ、ちびちゃん。稽古の首尾はどうかな」
内心の葛藤を押し殺すように、真澄はつとめて軽口を装った。
どこかぼうっとした様子でこちらを見つめていたマヤはややあって顔をそらせながら答え た。
「ごらんの通りです。わざわざ視察に来ていただいたのに、何の成果も見せてあげられな くて申し訳ありませんでした!」
当然といえば当然の刺々しい言葉の応酬に、思わず苦笑する。
「それは残念だな。そろそろ阿古夜の仮面もサマになってきた頃かと思ったのにな。やは りまだちびちゃんはただのちびちゃんのままか」
いつもの皮肉に対する子供じみた癇癪はしかし起こらなかった。意表をつかれる思いで真 澄は沈黙するマヤを見つめ返す。
「ちびちゃん、どうした?」
「いい加減にやめてください!あたしもうちびちゃんなんかじゃありません。こんなところま できてあたしをからかいにきたんですか?それならもう充分でしょう。帰ってください!」
思いもかけない激しい反応に真澄は狼狽する。しかしこの場をやり過ごす言葉はやはり 揶揄に満ちたものしかなかった。
「いや、これは失礼。随分威勢の良い天女さまで驚いたよ。実に君らしい阿古屋だ。予想 以上の成果が期待されるな。これで俺も心置きなく試演の日を楽しみにできるというもの だ」
マヤの顔色が傍目からでもわかるほど青ざめた。
「それは・・・それはあたしが紅天女を獲れなくて、紫織さんとの結婚式に何の支障もない ことを喜んでいるんですか?」
「そうは言ってない。・・・どうした?ちびちゃん。顔色が・・・」
「触らないで!!」
色を失い小刻みに震えだしたマヤに手を伸ばしかけたが、すばやく払われた。
「さぞかしご満足でしょうね。天女らしい美しさや華やかさも持ち合わせていないあたしに は演技しか残ってない。しかもその仮面をかぶることさえできないんですから、本当に救 いようがありませんものね」
おい、そのへんでやめておけという黒沼の声が背後で聞こえたがもはや彼女の耳には入 っていないようだった。成り行きを見守るエキストラたちのはらはらした視線をよそにますま す苛烈な言葉を投げかけた。
「ご心配なく!あなたなんかに言われなくてもあたしにしかできないあたしだけの阿古屋を 演じてみせます!速水さんの思い通りには・・・させません、速水さんなんかに・・・大都芸 能なんかに紅天女は渡しませんから!」
激しく言い募るうちにマヤの顔は上気し、大きな瞳が潤み始める。そしてあっという間もな く大粒の涙が頬を伝い落ちた。
「ちびちゃん・・・」
「・・・あなたなんか大嫌い!」
絞り出すようにそう叫ぶと、マヤは黒髪をなびかせながら走り去った。その背を追いかけよ うとしたエキストラの一人に黒沼の声が降りかかる。
「みんな追うな!てめえの感情のコントロールもできない未熟者にこの稽古場にいる資格 はない。北島は自分から出て行ったんだ。ならあいつが頭を下げて、もう一度演らせてくだ さいと言ってくるまでほうっておくんだ。いいな!」
有無を言わせずそう一喝すると、黒沼は丸めた台本で自分の肩をせわしなく叩いた。
「まったく・・・どいつもこいつも勝手なことばかり言いやがる。ああ、若旦那。すまねえな。 せっかくの表敬訪問にこんな醜態をさらしちまって」
「いえ、僕の方こそ急に押しかけてきた上に、場の空気を乱してしまった。彼女の言うとお り招かれざる客になったようですね」
「なーに北島のことは気にするな。なかなか役を掴めなくて苛ついてるだけだ。単なる八つ 当たりだよ。これが返っていい起爆剤になってくれりゃ望むとこなんだが」
そう言いながらも黒沼の表情はどこか晴れない。ぼりぼりと伸び放題の髪の毛を掻くと、 台本を持つ手で真澄の胸を軽く小突いた。
「ほれ、若旦那。そんなところでぼさっとしてないでさっさと動いたらどうだ。でくの坊じゃね えんだから、稽古の続きを見学するなり仕事場に戻るなりしろよ。あんたも暇じゃねえんだ ろ」
我に返ったように、真澄は黒沼を見つめ返した。そらとぼけた風を装いながら黒沼はにや りと笑った。
「それとも鬼の霍乱ってやつか?もしそうだとしたら、ちっとばかり用を頼まれてくれねえか な」
「何を・・・」
言いかけた真澄の目の前に、古びた黒い折りたたみ傘が差し出される。
「どうやら雨が降りそうだ。いくら根性なしの役者とはいえ試演前の大事な体に風邪でも 引かれちゃたまらねえからな。これを北島に届けてやってくれ。できるならあのでかい眼 が泣きすぎで腫れすぎねえうちにな」
まるで呪縛から解き放たれたように真澄は顔を上げた。胸元に押し付けられた傘を掴むと 黒沼に軽く頭を下げ、その場を後にした。
頼むぜ、旦那という黒沼の声を背に受けながら、建物の外へ走り出す。
もう胸の中にはなんのためらいも逡巡もなかった。自分の中のリミッターをはずしたのが彼 女の涙なのか黒沼の粋な計らいなのかはわからない。それとも桜小路とともに語らう彼女 の姿を見た時からすべてが狂ってしまったのか。いや、狂ったのではない。すべてを取り 払うことで何かを手に入れようとしているのだ。そして取り返しのつかないことなどこの世 には何もない。そう今は信じていたい。今だけは・・・。

―――せめて彼女を見つけるまでは。

「探したぞ・・・」

アパート近くにあるうら寂れた公園で、マヤを見つけた。
逸る気持ちを押し殺してゆっくりとした足取りで公園内に足を進める。
所在なさげにブランコを揺らせていた彼女は気配を感じたのか、のろのろと顔を上げた。
「速水さん・・・?どうしてあなたがここにいるんですか。またあたしをからかいにきたんです か」
小さな体を竦ませ、沈んだ声音で話すその姿に胸が痛んだ。
彼女を傷つけ追い込むのはいつも自分だ。自分さえ彼女に関わらなければ、もうこんな顔 をすることはない。そう自分さえ関わらなければ、彼女は幸せになれるのだ。
苦いものが喉元にこみ上げてくる。自虐的な思考をようよう押さえつけると、真澄は手にも った傘をマヤに差し出した。
「これを持っておくといい。もうすぐ雨になる。役者としての自覚があるなら自分の体はもっ と大切にするべきだ」
目の前にある傘と真澄の顔を交互に見比べた後で、マヤはふっと微笑んだ。
「そんなことをわざわざ言うためにここにきたんですか?速水さんも随分暇なんですね。仕 事の鬼が聞いて呆れますよ。・・・あ、そうか。万が一あたしが選ばれた時のために気を使 っているんでしょ?だめですよ、そんなことをしても。もうあたし騙されませんから・・・たとえ 千本の紫の薔薇を送られたって、絶対にもう信じませんから・・・」
泣きはらしたまぶたを伏せ、うつむいている彼女は今自分が口にした言葉の意味をまった く理解していないのだろう。傷つき、綻んだ心の隙間を計ったかのように零れ落ちた真実。

「・・・マヤ」

掠れた声で呼びかけると、濡れた大きな瞳が真っすぐ自分に向けられた。
言葉にならない思いがせめぎあい、思考を言葉を抑制する。
打たれたように立ち尽くす真澄を不思議そうに見つめたマヤが、ふいに顔をこわばらせ た。ようやく自分が無意識に零した言葉と真澄の変化を繋げる答えに気づいたのだろう。 ぎゅっとくちびるを噛み締めると、唐突に立ち上がった。
「待て!どこに行くんだ!」
踵を返して走り出そうとする彼女の肩をすばやく掴んだ。いやいやをするように頭を振って 抵抗するのを、強引に両腕を掴んでねじ伏せる。
「痛い!速水さん離して!!」
「そうはいかない。今君が言った言葉の意味を説明するまではな」
「意味なんて・・・意味なんてありません!お願い、放して!」
「・・・君はいつから気づいていたんだ?」
マヤの抵抗が止まった。
零れんばかりに見開かれた瞳を向け、怯えたようにくちびるを震わせる。一瞬そのすべて を奪い取りたい衝動に駆られたが、わずかに残った理性が何とか歯止めをかけた。
「あたし・・・」
か細い声が耳を打ち、真澄はマヤの体を引き寄せた。はっとするほど小さく柔らかな体。 甘い吐息がかかる距離になってようやく答えが届いた。
「・・・忘れられた荒野の初日に使ったスカーフの色を覚えていますか?青いスカーフ・・・ その色を知っている観客はたった一人しかいなかった。速水さん、あなたです。あなたし かいなかった!!」
絞り出すようにそう言うと、マヤは華奢な拳で真澄の胸を叩いた。すぐに嗚咽を堪えたよう な声が鳴り響く。
「どうして放っておいてくれなかったんですか!?あたし、あたしもう諦めてしまっていたの に・・・忘れようと思ったのに・・・っ。ひとりの女性として愛されなくてもいい・・・せめて女優 としてあなたの中で最高の存在になろうって―――」
しゃくりあげながら、何度も何度も拳を振り上げる。その度に軽い振動が胸に伝わり、痺れ るような痛みを生じさせた。
「ひくっ・・・あなたに、愛されなくても、いいって、あたし、あたしは・・・―――」

これは夢なのか現実なのか。それすらも定かではなかった。
ただただ恍惚にも似た甘い坩堝に翻弄された。

―――君は俺のことを想っていてくれたのか・・・?

うぬぼれでもなく偽りでもなく。

―――俺という存在を赦し、愛してくれたのか・・・?

虚飾に満ちた世界の中で、ただ一つ変わることなく輝いていた真実。

―――マヤ・・・君を愛している。

やがて拳が止まり、続いて言葉も途絶えた。その瞬間を見計らったように、真澄は華奢な 体を腕におさめる。そして祈るような思いで抱きしめた。彼女はもう逃げなかった。

いつのまにか雨が降り始めていた。
密着した互いの熱と匂いに圧倒され、気づく余裕すらなかった。
長い髪から滴り落ちた雫が胸を濡らす。それすらも火傷するような熱さを感じさせ、心を震 わせた。言葉もなく真澄に寄り添っていたマヤが囁くように話しかけた。
「・・・速水さん」
「何だ」
「あのね、安心していいですよ。あたし、速水さんの結婚を邪魔するつもりありませんか ら・・・」
「マヤ」
「それに・・・」
ふっとマヤは寂しげな微笑を口元に浮かべた。
「―――紅天女の行方もきっと・・・」
「マヤ!!」
真澄は思わず声を上げ・・・―――



A 彼女を強く抱き締めた。

B 彼女の頬を叩いてしまった。