A-B
パシッ・・

マヤの頬で火花のように音が弾ける。

―――どういうつもりだ・・!―――

真澄は打った右手の痺れを頭の片隅で感じながらも、心は既に違うところへと押し進んでいた。
細かく降りしきる雨に身体は熱を奪われ始めているにも関わらず、胸の奥から熱く突き上げる想い が彼を燃え立たせる。

「君は何を考えている?
俺の結婚を邪魔する気はない、愛されなくてもいいだと?」
苛立ちにも似た疼きを抱えながらも、漏れ出でる響きは飽くまで淡々と彼女の言葉をなぞる。
マヤは何が起きたのか把握できずに、ただ呆然と真澄を見詰めていた。
意識の外で動いた手が、赤みを帯びた頬にゆるゆると当てられる。
真澄はその腕を掴み、きつく捩じ上げた。

「そんなものなのか、君の思いは。その程度なのか。
俺を諦めて、忘れて・・・」
掴んだ腕にぎりりと力がこもる。口元には、貼り付けたような冷淡な笑み。

「そして・・桜小路の元へ行くのか?」


マヤの瞳が大きく開かれる。
思いがけず降ってきた非難の刃を無防備に受けて。

真澄の脳裏に浮かぶのは、数時間前に目にしたマヤの溢れんばかりの笑顔の数々。
彼が欲することさえも諦めていたその表情を、手に入れていたのは彼女の舞台の上のパートナー だった。
あの写真を見た時の衝撃が、今また彼の胸に再燃し彼女の言葉を受けて業火となる。

「あいつと共にいられれば、紅天女の結果などどうでもいいと?」
「そんな・・あたし、そんなこと言ってません!
どうしてそこで桜小路くんが出てくるんですか!?」
常にない真澄の様子に怯えの色を見せながらも、マヤは気丈にも反論する。
彼の誤解を解かなければと、ただその一心で。
なぜこのような話になったのかは、彼女の理解の範疇を超えていたが。

「そんなことはさせない」
何もかもを射抜くように、何物をも逃さぬように、真澄はその視線でマヤを捉える。
「速水・・さん・・?」
「君を他の男になど渡しはしないっ!」
激するままに真澄はマヤを胸に引き寄せ、抱擁した。
愛しさ以上に彼女を失う恐怖感がその腕に力を与え、二人の身体の空間を消失させる。

・・そうだ。俺は気が遠くなるほど長い間、マヤを大切に思い見守り続けてきた。
いつかは彼女の前に男として立ちたいと願いながら。
それを躊躇わせたのは過去に犯した、償うことのできない罪の呪縛ゆえ、だ。
だが、あまりに重いその枷を彼女は難なく断ち切った。
拒絶で構成される愛の告白で。

「諦める」

「忘れる」

「結婚の邪魔はしない」

「愛されなくても・・いい」


とんだお笑い種だ。
待ち続けてようやく振り返った彼女は、もう既に俺の手から逃れる算段をしている・・

ふっ・・・くっ・・くっくっ・・・

「速水さん?」
息も詰まりそうな圧迫の中、マヤが不安気に声をあげる。
「駄目だ、ちびちゃん。行かせない・・逃しはしない。
桜小路はもちろん、他の誰にも君を渡さない。
諦めるんだな・・君は俺が自ら捕らわれていた鎖を外してしまったのだから」
「どういう・・意味・・ですか・・」
「気がつかなかったのか?俺が“紫のバラの人”だと分かっていながら。
君に傾けるこの思いを、情熱を。
冷血漢と呼ばれるこの速水真澄が、愛しみ守り続けた女などこの世に一人しかいない」
腰に絡めていた右腕を解き、親指の腹をマヤの顎に当てその顔を持ち上げる。
彼女の眼差しの中に己れの存在があることを確認するために。

「君は俺にとって魅惑的な麻薬だよ。甘く酔わせ常の判断力すら鈍らせる。
このままでは俺自身を失うとわかっていても、止めることができない。
・・君だけだ、マヤ。
君だけが俺を狂わせ、言葉一つで俺の・・」


「命をも絶つことができる」


マヤの身体に小刻みに震えが走る。
放たれた音がじわじわと振動し、進むごとに不協和を醸し出していくかのように。
薄く開かれた唇は言葉を発することができず、首を振ろうとしても顔を固定している真澄の手によっ てそれは適うことがない。
痛みを帯びた瞳が長い睫に守られるかのように閉じられ、再び開かれたそれに揺らぐのは惑いの 波。
ここにいる男は一体誰なのか―――
そんな疑問が伝わってくるかのようだ。

いつも彼女の前では冷静さを装ってきた。
彼女の一挙手一投足に翻弄される、その心を隠すための必要不可欠な仮面。
だが実際はマヤを傷つけるという理由をつけて、己れが傷つくことをこそ恐れてきたのだ。
そう・・何より恐れたのは拒絶と、それによって起こる永遠の喪失。
だが、今、真澄の腕の中には気も狂わんばかりに欲し続けた愛しい存在がいる。

―――それこそが、彼の全て―――


寄り添う二つの魂が震えるのは、それぞれが抱えるあまりに深い嘆嗟ゆえか。
絡んだ糸はその結び目さえも見つけることができず、より複雑な形状を成す。

雨は音もなく降り注ぎ、二人の上に先の見えない闇を招き寄せていた。



<Fin>



※続編に「夢路の果て」「闇に降る雨」(夜の宴ページ)があります。


(A−Bエンディング担当:くるみん)