B-A
「あ・・・速水さん」
驚いたように大きな瞳を見開いたマヤがそこに立っていた。
柔らかなコーラルピンクのワンピースに白い型押しのバッグと同系色のパンプス。
眩しい陽射しの中で桜の色を纏ってたたずむ少女の姿は幻想的なまでに美しかった。途端に高鳴
り始める心臓の音を何とか鎮めつつ、真澄はマヤに声をかけた。
「そんなにめかしこんでどこに行くつもりだ、ちびちゃん」
いつもと変わりのないからかいめいた口調。先ほどあれだけの強い決意を胸に秘めてさえ、こんな
対応しかとれない自分に真澄ははがゆさを覚えた。
しかしマヤはそんな自分を曇りのないまっすぐな眼差しで見つめ返した。
「あたし、あたし・・・速水さんに会いに来ました。水城さんがこの場所を教えてくれたんです」
「・・・え?」
思いもかけない言葉に真澄は眼を見開いた。
「俺に会いにきてくれたのか?」
マヤはわずかに頬を赤く染めながら、こくんとうなずいた。
「はい。おねがいします。速水さんの時間を少しだけあたしにもらえませんか?」
そう言うと、何か考え込むようなそぶりを見せながらこう付け足した。
「あの、これは試演のために必要なことなんです。だから速水さんにとっても損はないと思います。
あ、でも速水さんは亜弓さんに勝って欲しいんですよね・・・じゃあやっぱりだめかな・・・」
うつむいたままぶつぶつと一人呟いているマヤが可愛くて、真澄は思わず微笑んでいた。
「な、何がおかしいんですか」
「いや、すまない。ただあまりにちびちゃんが・・・」
「あたしが・・・何ですか」
「可愛くてね」
ぼんっと今にも火がつきそうな勢いで真っ赤になったマヤを見て、ますます笑いが止まらなくなる。
「も、もうっいい加減にしてくださいっ!速水さんなんかに頼んだあたしが馬鹿でした!他の人に頼
みますからもういいです!!」
そう言って踵を返すマヤの腕を真澄がすばやく掴んだ。
「待て!いったい誰に頼むつもりなんだ」
「誰って・・・車かバイクを持ってる人なら誰でも・・・あ、そうだ。桜小路くんなら・・・」
「君はそんなものを持っていれば誰でもいいというのか!?なんて子だ!わかった!君の言うとお
り付き合おうじゃないか!紅天女が絡んでるのならなおさら放っておけないからな」
そのまま有無を言わせず、真澄はマヤの手を引っ張り押し込んだ。
「痛い!は、離してください。わかりました!速水さんに決めましたから、それでいいでしょう!?」
その言葉にようやく溜飲を下げると、真澄は手を離した。
「それで、一体どこにお連れすればよろしいでしょうか?お嬢さん」
助手席で掴まれた手首をさすっていたマヤはちょっと拗ねたように答えた。
「まだ内緒です」
「おいおい。それを言ってくれないことにはどこにも行けないだろう」
「いいから私の言うとおりにして下さい。どこに行けばいいかは私が案内しますから」
そのままだんまりを決め込み行き着いた先は、横浜にある小さな動物園だった。
「ここ・・・小さい頃よく母さんが連れてきてくれたんです」
錆びついたゲートをくぐり抜けると、マヤは懐かしそうに眼を細めた。
「今、阿古夜を育ててくれた村のおばばと話す場面をやってるんです。阿古夜の本当の両親は山崩
れにあって亡くなって・・・でも阿古夜はそのことを一度も寂しいと思ったことはなかった。一真と出
会って、彼を愛して初めて寂しいという感情を覚えるんです。その時の阿古夜の気持ちを想像して
いたら、無性にここに来たくなっちゃって・・・」
その言葉は、真澄の胸を容赦なく抉った。
永遠に背負い続けなければならない重い十字架。その罪深さを今更ながらも痛いほどに思い知ら
される。
(許されないことだとはわかっている・・・だがもう後戻りはできない。どんなに憎まれていても俺は
君を愛しているんだ・・・)
沈みかける思考を打ち払うかのように、小さな手が自分の指に絡みついた。
「速水さん、早く行きましょう」
下から覗き込むように無邪気な笑顔を見せる彼女に、一瞬すべてを忘れそうになるほどの愛しさを
覚えた。触れ合った指先をしっかりと包み込むように真澄は握り返した。
「ああ、そうだな。どこへでもお供するよ」
「えへへ、覚悟して下さいね。今日は速水さんに似合わないことをたくさんさせちゃいますから」
「それは頼もしい言葉だな」
そして二人は時間を忘れて園内を歩きまわった。
キリン舎の前ではキリンと同じ目線で話がしたいというマヤの要望で肩車をし、ふれあい広場では
逃げるウサギやモルモットを追いかけたりエサを与えたりした。そしてその後は一緒に買ったソフト
クリームを分け合って食べた。
「ふふ、何だかおかしいですね」
暮れかけた赤い夕日を見つめながら、マヤが呟いた。ずっと手を繋いだまま、二人は今日一日を過
ごしていた。少しだけ慣れた彼女の体温に、冷えきっていた胸のうちがようやく満たされていく心地
がした。
「速水さんがこんなところにいて、あたしと一緒に夕日を見てるなんて・・・何だか夢みたい」
どこか寂しげな微笑を浮かべたマヤがそう言った。
「ごめんね、速水さん。今日は無理やりあたしに付き合わせちゃって。でももうこれが最後だから許
して下さいね」
「え・・・?」
言葉の意味をはかりかね、真澄は夕陽に照らされたマヤの横顔を見つめた。どこか遠くを見るよう
な眼差し。こうして手を繋いでいるというのに彼女がふいにどこかに消えてしまいそうな感じがす
る。
「マヤ・・・」
握り締めた手の力をどう思ったのか、彼女は顔を背けた。
「・・・もう一度自分に勇気を持とうと思ったんです」
か細い声でマヤは呟いた。
「一度は諦めました。いいえ、諦めようと思ったんです。試演のことだけを考えるようにしてました。
だけど・・・だけどだめでした。阿古夜になろうと思えば思うほど、あなたの顔が浮かんでくるんで
す。一真を求めているのに、心の中ではあなたの名前を呼んでいるんです。忘れようと思えば思う
ほど・・・速水さんに会いたくなってしまうんです!」
最後は迸るような声でそう言うと、マヤの瞳から涙が零れ落ちた。
緩んだ掌から小さな手が離れ、そのまま自分の胸に彼女の顔が押し当てられた。布地を通して伝
わる熱い吐息に思考が乱れ始める。
「マヤ・・・」
「お願い、何も言わないで。少しの間だけでいいんです。速水さんのそばにいさせて下さい」
もう何も考えられなかった。真澄はありったけの力を込めてマヤを抱き締めた。
「は、速水さん・・・?」
戸惑うマヤに構うことなくさらにその体を引き寄せると、真澄はくちびるを重ねた。
ただ触れ合うだけの優しいくちづけ。
やがてくちびるを離して顔を覗き込むと、当然のことながらマヤは頬を紅潮させて絶句していた。
「な、何を・・・速水さん、何をするんですか?」
「口で言ってもすぐに理解してくれそうになかったからな。それに言葉よりも早く君に伝えたかったん
だ」
「ど、どういうことですか?い、言ってる意味が今も全然わかりません・・・っ!」
夕陽に負けないほど真っ赤に染まった彼女に、くすりと微笑みながら真澄はもう一度彼女にくちづ
けた。
「んんっ!も、もうっ!やめて下さい!!」
「やめない。君が俺の気持ちを分かったと言ってくれるまではな」
「い、意地悪・・・っ」
そう言って涙目で見つめてくるものだから、おのずと抱き締める力が強くなることは必至だった。少
し震えているマヤの顔を仰向け、真澄はさらに笑みを深めた。
「でも、そんな俺にずっと会いたかったんだろう?」
「・・・今は早く帰りたいです!」
「はは、だったらなおさら君を離すわけにはいかない。君の帰るところは俺のところだからな」
「な・・・っ」
「違うのか?」
一瞬訪れる沈黙。
互いの心を探るかのように視線を交わし、薄い青闇の中でただ向かい合う。
そんな二人の目の前を、どこからか現れた白い風船がふわりと横切っていった。
「・・・オズの魔法使いを知っているか?」
ゆっくりと宙に舞う風船を見つめながら、真澄が言った。
「虹の向こう側には帰りたい世界が待っている。そう思って困難な旅を続けてきたドロシーたちは最
後になって真実を知るんだ。ずっとずっと欲しがっていたものが本当はすぐ目の前にあったことを
な。強く願っていれば想いはきっと叶う。・・・今なら俺もそれを信じることができる」
静かな眼差しを向け、真澄は最後の言葉を紡いだ。
「・・・俺は君を愛しているから」
その言葉にマヤは大きく眼を見開くと、ぎゅっとスカートの裾を握り締めた。そして次の瞬間泣き笑
いのような表情を浮かべ、真澄の胸に飛び込んできた。
「ありがとう、速水さん・・・ありがとう!」
腕の中で熱い涙を流すマヤを真澄はしっかりと抱き締めた。
「それは俺の台詞だ・・・マヤ、ありがとう。今まで生きてきた中でこんなに幸せだと思ったことはな
い・・・」
「どうしよう・・・あたしまだ信じられない。幸せすぎて本当に夢を見てるみたいで」
「じゃあ、マヤもう一度眼を閉じて。そして願ってごらん。どこに帰りたいのか。何を願っていたのか。
眼を開けた時、もう夢だなんて思わなくなるから」
ゆっくりと顔を上げたマヤが微笑んだ。
「踵を3回鳴らすの・・・?」
「ああ、そうだ」
そっと体を離すと、マヤは大きく息を吐き眼を閉じた。
白い靴が踊り、軽やかに鳴り響く。
それは幸福が目覚める音。
二度と醒めない夢の中へと繋がる瞬間。
―――眩しい虹の向こうの世界へ旅立つ魔法がかかる。
伏せられていた両の瞼が、やがてゆっくりと開かれた・・・。
<Fin>
(B−Aエンディング担当:yuri様)
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