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「真澄様、お待たせいたしました」
ホテルのラウンジでブルーマウンテンを口にしていると、落ち着いた声が降りかかってき
た。真澄はカップを置いて立ち上がり、婚約者である紫織を迎えた。
一流ホテルの装飾に見事に調和した高価な彩りと身のこなし。つくづくこのような場に相
応しい女性だと感じ入ると同時に澱のように沈んでいく束縛感をおぼえた。
もう逃れる事はできない。これが俺の選んだ人生。俺が生きていかなければならない道な
のだ。そんな真澄の葛藤を知るはずのない紫織はくすりと品の良い微笑を浮かべた。
「うふふ。珍しいですわね。真澄さまの方がお待ちになられているなんて。これではいつも
と反対ですわね」
「いやこれはまいったな。いつもあなたにこんな思いをさせているのかと今つくづく反省して
いたところです。今日はまた僕の我儘で突然呼び立てたりして申し訳ありませんでした」
「いいえ、とんでもない。それどころかこんなに早くお約束を守っていただけるなんてもう嬉
しくって・・・わたくし子供のようにはしゃいでばあやにたしなめられましたのよ」
「ははは、あなたらしい」
「もう真澄様ったら・・・」
微笑を交し合い、ラウンジを離れた。いつものように紫織をエスコートし、ブライダルフェア
の会場である最上階のフロアへと向かう。その間にも今日の催しの数々に眼を輝かせて
期待の声をあげる紫織と会話を続けた。
「ねえ、真澄様。今日は真澄様もぜひ試着してくださいましね。お写真も撮っていただける
んですわよね。ああ、楽しみですわ。本当のお式にはわたくし、自分が育てたカトレアを
テーブルに活けようと思いますの。列席された皆様に少しでも感謝の気持ちが伝われば、
これ以上の幸せはありませんわ」
「そうですね・・・きっと素晴らしい式になることでしょう」
答えながら、真澄の心中はますます重苦しいものになっていく。触れられた腕が、言葉を
紡ぐくちびるが、順調に進んでいたはずの足取りが。
平日の午後という時間帯もあってか、参加しているカップルは自分たちの他に誰もいな
かった。まるで本当の挙式当日ように紫織ははしゃいだ様子で、今も模擬挙式のためのド
レス選びを女性プランナーと楽しげに話している。
その様子をどこか他人事のように離れたところから真澄は見つめていた。
婚約披露パーティーの時と同じだ。
絢爛豪華な最高級ホテルのパーティー会場。
燦然とした光を放つ王朝風のシャンデリア。蜘蛛の糸を張り巡らせたような文様を描く豪
奢なペルシア絨毯。大輪のオールドローズをふんだんにあしらった生花や観葉植物がとこ
ろどころに配置され、まるで檻のようにフロア全体を囲んでいた。
やがて光に誘われた羽虫のように群がる人々に賛辞と追従の雨を受けながら、自分は華
燭の典を挙げることになるのだ。
「―――真澄さま!」
最高の富と権力に守られ、人工的な飾りで眩く彩られたこの女性が生涯の伴侶となる。
それはまさに今まで自分が歩んできた人生の象徴ともいえる虚飾と欺瞞に満ちた儀式と
なることだろう・・・。
「こちらのドレスを試着しようかと思いますの。いかがかしら?」
目を輝かせて花嫁となる歓びに満ち溢れている紫織。そう彼女に何の罪も責任もない。す
べては自分が選んできた人生だ。強いられ望まれて敷かれた一本の道筋だったが、引き
返す事も逸れる事もしなかったのは紛れもなく自分の意思だ。
今さら誰のせいにしようとは思わない。
「―――ええ、きっとよくお似合いですよ。挙式の日が今から待ち遠しい限りだ」
内心の後ろめたさを隠すように、真澄は優しく微笑んだ。その言葉に紫織は素直に頬を赤
らめた。
「相変わらずお上手ですこと。ではあちらで試着してまいりますわね」
「ええ、楽しみにお待ちしていますよ」
そう言った瞬間、なぜか紫織の眼に陰りが走った。
「紫織さん・・・?」
「いえ、何でもありませんわ。少し神経質になっているだけです。もしかしたら世間で言うと
ころのマリッジブルーにかかっているのかもしれませんわね」
どこか寂しげに紫織は微笑んだ。
「きっとお疲れになっているんですよ。僕の都合であなたに無理を強いることが多くて、い
つも本当に申し訳ないと・・・」
「真澄様」
普段はけして話の腰を折る事のない彼女が口を挟んだ。
「わたくしの気のせいですわよね」
「え・・・」
「あなたがそうして遠い眼をなさるのは、きっと何でもないことですわね。いつも同じお顔し
かお見せにならないのも、どこか苦しみを耐えていらっしゃるように思えることも・・・無理を
強いているのが、まるでわたくしの方だということも・・・」
そこで紫織は言葉を止め、真澄をじっと見つめた。その眼差しは意外なほど強く凛としたも
のだった。
「きっと・・・わたくしの気のせいですわね」
「―――紫織さん」
「今日は父も祖父も早く邸に帰ってくると申しておりました。真澄様のご都合がよろしけれ
ば、ぜひ夕食をご一緒いたしませんか?二人とも真澄さまと一度ゆっくりとお話がしたいと
常々申しておりましたのよ」
静かに微笑を浮かべると、紫織はそれ以上何も言わずその場を離れた。後に残された真
澄はしばらく紫織の残した言葉と眼差しの意味を頭の中で反芻させていた。
(まさか・・・彼女は気づいていたのか?俺の本当の思いに・・・何を望んでいたかを・・・)
さまざまな思いが渦巻き、混乱を呼び起こした。
婚約者の不実を責めるわけでもなく、どこか諦観したような表情を見せた彼女がひどく切
なかった。
・・・自分には人を幸せにする資格などないのかもしれない。
視線を落とした先には、露に濡れた一枚の花びらが落ちていた。まるでそれは彼女が心
で流した涙のように・・・。
身を屈め、白いその一片を手に取った。しっとりと濡れた柔らかなその感触に、忘れること
のない愛しい幻影が脳裏をよぎる。
―――捨てて下され。名前も過去も・・・。
―――阿古夜だけのものになってくだされ・・・。
―――のう、おまえさま・・・。
ふたつに分かれたひとつの魂。
もうひとりの自分自身。
そしてこの世でもっとも愛しい女。
もう一度この手に抱き、声を聞くことが赦されれば今すぐにでも奪い取ってしまいたい。
そこまで考えた時、あの運河でずぶ濡れのマヤを抱え上げた桜小路の誇らしげな表情が
まざまざと甦った。さも当然であるかのようにその腕に抱き、揃いのイルカのペンダントを
胸に煌めかせ・・・。
悠然としたその後姿を見送る真澄の目に、最後に飛び込んできたもの。
それは桜小路の背中にすがりつくように回された彼女の白い腕だった。
(だめだ・・・どうしても許せない!!)
全身の血が逆流しそうな激しい怒りと焦燥が体の奥で再び渦巻いた。
忘れようもないあの社務所での長い夜が思い出される。
凍えるような寒さからか憎悪する男の腕の中にいる恐ろしさからか、半ば震えながらも自
分の背に回された白くしなやかな腕。
押し付けられたあの子の顔も握り締めたあの子の手もあの子の首すじも髪の毛の匂い
も。
―――体の中に未だ残る柔らかな温もりも。
すべて自分だけのものだ。
誰にも渡すつもりはない。
自分以外の人間が触れることなど許さない。
(もしそんなことになれば俺は本当に気が狂ってしまうだろう・・・。)
ああ、そうだ。
そうだったのだ。
狂ってしまえば良かったのだ。
ありのままをさらけ出し、望むままに歩いてみればいい。
この世でただひとり愛するあの少女のように・・・。
今自分の目の前に、新たなひとつの道筋が鮮やかに広がっていくのが見えた。
体の中を今まで感じた事のない熱い闘志の炎が芽吹いた。
―――初めて自分が選んだこの道を、泥沼を這いずってでも生きてみせる・・・! !
真澄は踵を返すと、フロアにいたプランナーの一人に声をかけた。
「・・・君すまないが、今試着をしている女性に伝えておいてくれないか。大事な用ができ
たので今日はこのまま失礼する。・・・改めてまた夜に家の方へ伺わせていただくとな」
ホテルを出ると、大きな歓声が轟いた。
眩しい陽射しが十字架を頂くチャペルを光り輝かせている。
たくさんの人間がチャペルのまわりに集っていた。結婚式特有の華やいだ空気が遠目か
らでも確認できた。
そんな真澄の目の前をふわりと何かが横切った。
鮮やかな色とりどりの風船が無数に上がっていた。それは澄み切った青い空にまるで虹
がかかったかのような眩しい光景だった。
虹の向こう側にはいったい何があるのだろう。
きっとそこには希望に満ち溢れた世界がある。そう誰もが信じて虹を見上げるのだろうか。
手をかざし、空を仰ぐ真澄の前をまたひとつ赤い風船がゆっくりと昇っていく。その後から
現れた意外な人物の姿に、真澄は思わず眼を見開いた。
「どうしてこんなところに・・・―――」
A 「マヤ・・・!!」
B 「紫織さん・・・!!」
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