桜の木から始めよう <後編>


運転手に1万円札を渡し、釣りはいらないと言って彼女を抱きかかえ車から降りた。
春になったとはいえ、まだまだ夜は肌寒い。
タクシーから降りて寒かったのか、マヤがクシュンとくしゃみをした。
その拍子に彼女が目を覚ます。

「あれ?・・・・・・はやみさん?」
「チビちゃん、お目覚めかい?」と顔を覗きこむ。
マヤは速水の顔があまりにも近くにきたので、びっくりして固まった。

私・・・。どうして速水さんに抱きかかえられてるの?
飲みすぎたので記憶がまったくない。
覚えているのは、彼にとても愛している人がいることを知ってしまったとこまでだ。
これってすごく迷惑かけてるじゃない。
だって、もし、速水さんの好きな人に私を抱きかかえているところを見られていたら、ますます
速水さんの気持ちはその人に届かないじゃない。
早くおりないと・・・。

マヤは少しずつ落ち着いてきたのでゆっくり話しだす。
「速水さん。すみません。おろしていただけませんか?」
「君は・・・。飲みすぎだな。気分は大丈夫か?」
「大丈夫です。だから早くおろしてください」
「・・・わかったよ」
速水は名残惜しそうに彼女をそっとおろした。

「チビちゃん。よかったら酔いをさましに行かないか?」と公園を指差す。
つい彼女と少しでも長く一緒にいたくて誘ってしまう。
お願いだ。もう少し一緒にいてくれ。
不安な面持ちでマヤを見つめる。

「そうですね。飲み過ぎちゃったから・・・。
 せっかくの速水さんのお誘いを断ったら後が怖いし。いいですよ」

マヤが自分の誘いを断らなかったことに速水はホッと安心した。

「その前に、未来の紅天女様に風邪を引かれては困るのでどうぞ」
と自分が着ていたスプリングコートをふわっとかけてやる。

「あっ。ありがとうございます、速水さん」
ちょっと恥ずかしくてマヤは俯きながら歩く。

そんなマヤが愛しくて仕方がないのに手を繋ぐこともできない速水は、彼女より先に歩いていく。

マヤは速水の後を追っていくといつものブランコにのところに行き座った。

「チビちゃん。それにしても今日の君は飲みすぎだろ。
 あんな風に酔いつぶれるほど飲んで。もし、何かあったらどうするつもりだ」

ついつい、いつもの説教がはじまってしまう。
だが説教でも言わないと自分の気持ちが抑えられそうになかった。

もし、彼女に何かあったら、俺は・・・。俺は・・・。
きっと・・・気が狂うだろうな。

「すみません。ご迷惑をおかけしました。以後、気をつけます」

「どうした? 今日のチビちゃんは、突っかかってこないんだな。
 そんなに悩んでるのか?」

「いえ、もういいんです。
 どんなに飲んでも忘れられないことはわかりましたから」

「何を忘れようとしてるんだ? 俺でよかったら話くらい聞いてやるぞ。
 一人で悩んでいても何も解決しないだろう?」

「今日の速水さんは・・・優しいんですね。 じゃあ、相談にのってもらおうかな」
「ああ、どうぞ」

「その前に聞いてもいいですか?
 速水さんは好きな人がいるんですよね。どうして、告白しないんですか?」
マヤからの突然の質問に額から汗がじわっと浮き出てくる。

「うっ。それは・・・。俺が冷血漢で・・・彼女には昔から嫌われていたからな」
「じゃあ、その気持ちを抱えたまま紫織さんと結婚するんですか?」
「まあ、そういうことになるな」
「それって速水さん苦しくないですか?」
「苦しくないと言えば嘘になるな。もう何年も思い続けているからな」
「それより。さっきから俺のことばかり聞いているが、君はどうなんだ? 何を悩んでるんだ?」

「それは・・・。 私も好きな人がいて、どうしても忘れることができなくて、稽古中でもその人のこと ばかり頭に浮かんでくるんです」

なに? マヤに好きな人だと? 誰だ? 一体・・・。
彼女の心を虜にした奴に嫉妬で気が狂いそうだ。
自然と表情が厳しくなっている。

「誰だ、そいつは?」嫉妬から口調がきつくなる。
「・・・言えません」
速水の厳しい口調に戸惑いながらもマヤは答えた。

「どうして?」
「その人に・・・迷惑がかかるから・・・」
マヤは泣きそうになるのを必死にこらえながらゆっくり答える。

「君はそいつに自分の気持ちを伝えたのか?」
「いえ・・・。でもその人には、とても好きな人がいることを知りました。
 だから、その人のことは諦めます。
 今日、速水さんと一緒に見た桜の木のように・・・。
 もうすぐ私の恋も花びらとともに散っていきます」

マヤの瞳に涙が溜まりだす。
「でも、・・・私。不器用だから、きっとその人のことずっと忘れられないと思うんです。
 自分の恋も駄目なのに・・・。紅天女の恋ができるわけないですよね」
マヤの瞳からポロポロと涙が流れだす。
もう限界だった。自分の想いを抑えきれなくなり顔を両手で覆い泣き出した。

彼女の涙を見た速水は、理性の扉の鍵が壊れる音を聞く。
・・・・・・ガシャーン。
とうとう自分の心から溢れる想いを抑えることができなくなった。

彼女をそっと、柔らかく包むように抱きしめる。
「チビちゃん。・・・俺じゃ駄目か?
 君の好きな人の代わりにはなれないか?」
彼女の心も包むように優しく語り掛ける。

マヤは泣きじゃくりながらも、びっくりして顔をあげる。
「は、はやみさん。何・・・言ってるんですかっ?
 速水さんが、そんなことできるわけないでしょ。速水さんには紫織さんがいるんだから。
 それに好きな人だっているのに・・・」
「紫織さんのことは、会社同士の結婚だと言ったはずだっ」
自分の気持ちに歯止めが利かなくなり、つい強い口調で言ってしまう。

マヤへの気持ちが溢れ出して止まらない速水は、彼女の体をギュッときつく抱きしめる。 

どこにも逃がさないように・・・・・・。

自分のすべての想いを込めて。

「お、俺は・・・。マヤ。・・・君が好きだ。ずっと好きだった。
 俺が最も愛する人はマヤ、君だ。 そして・・・結婚してずっと一緒にいたいと思うのも君だけだ」

マヤは驚き、顔を上げた。
速水を見つめ目を大きく開いたまま呟く。
「う・そ?・・・」
「嘘じゃない。俺はずっと君だけを見てきたんだ。若草物語のベスの時からずっと・・・。
 だから、俺が君を幸せにしたい。駄目か?」

速水からの突然の愛の告白に頭の中は真っ白になっているが、マヤの心は速水への気持ちで
いっぱいになり溢れ出す。
「駄目じゃないよ〜〜〜。わたし・・・。わたし・・・。・・・速水さんでないと駄目なの。
 速水さんじゃなきゃ・・・駄目なの」
泣きながら必死で訴える。
マヤの顔は涙でぐちゃぐちゃだ。

「えっ」速水も驚きを隠せずに目を見開いたまま、マヤを見つめる。
「わたし・・・私も速水さんが好きです。もうずっと・・・」
マヤは速水の背中にすがりつくように手を廻した。
速水も先程よりも、もっと二人の体に隙間がないくらいきつく抱きしめ返した。

信じられない。マヤの好きな人は俺だったのか。
俺たちは、互いに想いあっていたのにすれ違っていたのか。
さっきまで嫉妬していた相手が自分だったとは・・・。

「マヤ。愛してる。もう離さない。絶対。誰にも渡さない」
「速水さん・・・。私も愛しています。・・・うれしい、夢みたい」
「チビちゃん。これが夢かどうか確かめようか?」
ちょっといたずらっぽく言うと彼女の顎にそっと手をかけ上をむかせる。
マヤがそっと目を閉じる。
マヤの唇に真澄の形の良い唇がそっと触れる。
触れるだけのキスをした速水は、もっともっと味わいたくて彼女に濃厚なキスをしかける。
今までの長い間の想いを込めて、何度も何度も角度をかえ貪る様に口づけた。
真澄の溢れる愛が唇から唇に伝わり、マヤの目から涙が零れ落ちた。
濃厚なキスが初めてのマヤは体中から力が抜けて崩れそうになる。
崩れ落ちそうになるマヤの腰を左手でしっかり支え再び抱きしめた。

「マヤ。今の俺にはいろいろなしがらみがある。
 必ず、すべてを片付けてみせる。君の愛を得た俺に怖いものは何もない。
 それまで、待っていて欲しい。必ず君の横に正々堂々と立って見せるから」

「はい。私は・・・あなたを信じて、待っています」
「ありがとう」
再び、抱きしめあう二人。

そんな時マヤが「あっ」と声を出す。
「チビちゃん、どうした?」
「この公園の桜の木も満開だったんですね」と桜の木を指差した。
彼女が指差した方を見ると確かに満開の桜の木がひっそりと佇んでいた。
マヤは桜の木までゆっくりと歩いていく。速水もその後をついて行く。

「わたし・・・。毎日、公園の側を通っていたのに桜が咲いてるの全然気がつかなかった」
「ずっと、考えてたんだろ。俺のこと。桜が咲いたのもわからないくらいに」速水が意地悪く言う。
「もう、速水さん。私、本気で悩んでたんですよ」拗ねた顔で言う。
「君がそれだけ、俺のことを考えていてくれたなんて光栄だよ」
速水はいとおしむような微笑をうかべる。

「また、そんなこと言って・・・。
 でも、さっきのお花見は頭の中、速水さんでいっぱいだったから桜はほとんど見てなかったん
ですよね」
「実は俺も・・・。桜はほとんど見ていない。君が無理に酒を飲んでいたから、心配で気がきじゃ
なかったんだ」
「誰のせいで、あんなに飲んだかわかってますよね?」
マヤが上目遣いでいたずらっぽく言う。
「ああ、俺だろ。すまなかった。君の気持ちに気づいてやれなくて。
 だが、これからはあんな飲み方しないでくれよ。とくに俺がいない時は・・・。
 心臓がいくつあっても足りない」
二人は顔を見合わせて笑う。

「速水さん。せっかくだからここで二人っきりでお花見しませんか?」
「そうだな。誰にも邪魔されずに二人っきりで・・・・・・」
「速水さん? 変なこと考えてないですよね?」
「ああ、今はね。でもすべてが片付いた時には君をたっぷりいただくよ」
「は、は、はやみさんっ。 な、なに言ってるんですかー」マヤの顔は真っ赤である。 

「わたしは、速水さんとゆっくり桜の木を眺めたいだけなのにー」
マヤは速水の胸をポカポカとたたく。
そんな彼女に微笑み返しながら、そっと手を取り自分に引き寄せた。
真澄は真剣な顔になり、熱く激しい眼差しでマヤを見つめる。
「マヤ・・・。必ず、君のすべてを貰うから覚悟しとけよ」
「覚悟しとけって・・・」
「それまでは、俺も我慢するから」
「我慢するって・・・」
「そういうことだ」
不敵な笑みを浮かべ微笑む速水に、もう、何も言えないマヤであった。

「マヤ。 この桜の木から二人ではじめよう。
 桜がつぼみの時も、桜が満開の時も、桜の花が散っても、新緑の季節になっても、枝に何もつい ていなくても。
 どんなに季節が巡っても二人の気持ちはずっと変わらずにいられるように。
 来年も再来年もその先もずっと、この桜の木を二人で見に来よう。
 俺たちの気持ちが通じ合った、記念の桜の木だからな」

速水はマヤをしっかり抱きしめて、今、このひと時の幸せを噛み締めた。
このひと時を二人の未来に繋げる為に、明日からは戦わなくてはならない。
だが、やり遂げてみせる。絶対手に入らないと思っていたものを手に入れたのだ。
彼女のほかには何も要らない。すべてのものに勝ってみせる。
速水の目には闘志の炎がメラメラ燃え上がっていた。

後日、水城は速水から、鷹宮との事業提携の白紙と婚約解消に向けて動くことを告げられる。
真澄様、よかったですわ。やっと想いが通じて・・・。
これからは大変でしょうが真澄様なら乗り越えられますわね。
しっかりサポートさせていただきますわ。
私も忙しくなるわね。毎日残業の日々かしら。
こんな幸せな真澄様とマヤちゃんの為なら仕方ないわよね。
さあ、私も頑張りましょう。

きっと黒沼先生の所でもマヤちゃん稽古上手くいっているんでしょうね。
やっと本当の恋が実ったんだから・・・。紅天女の恋もきっと上手くいってるはず。
黒沼先生もようやくバリバリ稽古ができて、今頃声を張り上げているのかしら。
あっ。そういえば桜小路君は大丈夫かしら?
真澄様とマヤちゃんのことは、今は公にはできないから言えないけど・・・。
なんとなく気づいてるかも知れないわね。
昨日は真澄様がわざわざマヤちゃんを送っていかれたのを見てるから、ショックで今頃寝込んでい るかも。
まあ、桜小路君のことは黒沼先生にお任せしましょう。

真澄様、マヤちゃん、これからもお幸せに。



<Fin>