B−B
「どうしてこんなところに・・・―――」
だがその言葉はかろうじて心の中に留めた。そして真澄が実際に発した言葉は。
「紫織さん・・・!!」
ブライダルフェアの会場で、気に入ったドレスの試着のために消えたはずの彼女がどうして目の
前にいるのだろう。真澄には全くわからなかった。
「素敵なお式ですわね。二人とも・・・、いいえ、みんな、とても幸せそう・・・」
真澄の驚愕の表情などまるで見えていないかのように静かに彼の隣に立つと、紫織は涼やかに
目元を細めて、祝福に集う人たちを見つめながら独り言のように話した。これは一体誰だろう。血の
気の薄い白磁の肌。芸術品のような鼻筋。黒曜石よりも輝く瞳。あでやかな大輪の花のように美し
い唇。黒々と豊かに広がるその絹の黒髪。真澄は、見慣れたはずの紫織の横顔をまるで初めて見
る人の顔のようにじっと見つめてしまった。何も言うことができない。彼女の真意がわからないから
だ。
「ねぇ真澄さま。そう思われませんこと?」
「そうですね・・・」
彼女が何かとても大切なことを言おうとしている。何か重大な決意を秘めている。それはわかるの
に何を言おうとしているのか、その決意が何に対してなのか見当もつかない。華やかな祝福の笑い
声に包まれる人々をじっと見つめ続ける彼女の、その視線からは何も読み取れず、それでも何か言
葉を返さなければとの思いからつまらないことを言ってしまった自分に真澄は当惑していた。こんな
時に気の利いた言葉一つ言えないとは大都芸能の速水真澄が聞いて呆れる。だが紫織はそんな
ことは全く意に介さないようだった。果たして真澄の答えを聞いているのかどうかもわからない。相
変わらず視線を、至福の時を過ごす彼らに合わせたまま、とても穏やかな表情を浮かべているだけ
だ。
「うらやましい・・・」
どうしていいかわからずに、ただ呆けたように紫織の横顔を見つめている真澄の耳にふとその言
葉が飛び込んできたとき、それがまさか紫織の口からこぼれたものだということを一瞬理解できな
かった。
「え?今なんと?」
その真澄の愚問を聞き初めて彼を振り返ると、紫織は諦めたような顔で一瞬真澄を見つめ静かに
その唇に、もう一度先の言葉を乗せた。
「“うらやましい”と申しましたの」
彼女が何のことを言っているのかわからない。そんな気持ちが顔にも表れてしまったのだろうか。
紫織はまるでできの悪い子供に根気強く勉強を教える教師のような顔で言葉を続けた。
「あの方たち、とても幸せそうですわね。たくさんのお友達に囲まれて・・・」
「そうですね」などと意味のない返事をする真澄をあっさりと無視して紫織は先を続ける。
「私もね、あんな風なお式がしたかったのですわ。私たち自身の幸せを喜んでくれる人達に囲まれ
て、祝福されて・・・」
それからふいに自分の左手の薬指を飾る大きく澄んだ青い石を、まるで今日初めて見つけたホク
ロででもあるかのように不思議そうな眼差しで見つめつつ、紫織は自分に問いかけた。
「私たちのお式には、きっと大勢の方がお祝いに来てくださいますわね」
最早紫織は真澄の「そうですね」を必要としていない。それがわかっていながらその言葉をオウム
のように繰り返すことしかできない己の愚かさを真澄は呪っていた。
「大勢の人たち・・・。それぞれに権力とお金と地位を持って。けれど、みんな心の中では一緒。誰も
保身のために来てくれるだけ。私たちの、いいえ、私の幸せを祝って来てくれる人などありはしない
のですわ・・・」
「何を馬鹿なことを考えているのです」、「そんなはずはありません」、「あなたは誰からも愛されて
いるではありませんか」。頭に浮かぶそれらの言葉がいかに空々しいかを真澄自身知っていた。確
かに紫織の言う通り、自分たちの結婚は誰かの利益になるものであって、一銭の儲けにもならない
話なら一体どれほどの人間が集まってくれるだろう、とは真澄も思う。だが紫織はそんなことに気が
ついていないと思っていた。しかし彼女は聡明な女性だ。気がついていないはずがないではない
か。気がついていない、と思っていたことが自分の驕りであることを、真澄は思い知らされた。だか
らこそ、いつもなら言えるそんな虚しい言葉たちも今は言えないのだ。今の紫織にそんな意味のな
い言葉を言うことは失礼になるだろう。だからと言って他に言うべき言葉も知らない。真澄は沈黙せ
ざるを得なかった。
重苦しく沈黙する真澄を見て、紫織はふいにいたずらっぽく、ふふふと笑った。
「真澄さま。私ね、子供の頃からいつも夢想しておりましたのよ」
急に話題が変えられたことに驚き真澄は思わず彼女を見つめる。どうも今日の真澄は一歩も二歩
も彼女にリードされている感を否めなかった。
「私は高い塔に閉じ込められたお姫様で、自分ではそこから逃れることができないのです。けれど
いつでもそこから逃げ出したくて・・・。塔の窓から高い空を見上げていると、いつの日か真っ白なペ
ガサスに乗った王子様がやって来て私を救い出し、自由と愛を与えてくれる・・・」
そこまで夢みるような目つきで語った彼女は、まさに少女そのものに真澄には見えた。儚い夢を
信じる脆い透明な心を持つ、疑いを知らない少女。だが次の瞬間、彼女は少女から女に戻ってしま
う。
「ふふっ・・・。御伽噺ですわね」
夢を見ることが哀しすぎることだと気がついてしまった少女は、もう元の少女には戻れないと言う
のか。そんな自分を知っているのだろう。紫織は失くした物を懐かしむような表情で自分の両手の
ひらをしばらくの間見つめていた。
急に真澄は彼女を初めて人間の女として見ている自分に気がついた。彼女は「鷹宮」と言う看板
を背負った人形ではなかったのだ。会社を大きくするための道具でもない。大きすぎる家に生まれ、
人生の何もかもを結局自分の思う通りに決めることも進むことも許されなかったのだろう。そんなこ
とは、自分だってよくわかっているはずではなかったか。それは自分自身が「速水英介の息子」に
なったその瞬間から味わってきた苦悩と同じだ。自分がそうであったように、彼女もまた幼い頃から
悩み、苦しみながら成長してきている一人の「人間」なのだろう。そのことに気がつかなかった、気
がつこうとさえしなかった自分の残酷さを、今の紫織は真澄に突きつけてくる。それは静かに、そし
て哀しく、強く。
「真澄さま。私、あなたに恋をしましたの」
紫織の澄んだ瞳がじっと真澄に注がれている。その瞳に広がる静謐を、真澄は確かに感じてい
た。
「恋・・・。生まれて初めての恋でしたわ。とても甘くて幸せで・・・。けれどそれはほんの最初の時だ
け。どうしてかしら?いつしかどんどん苦しくなっていきました・・・」
真澄はいまや、彼女の言葉を漏らさず聞こうと息を詰めるようにして途切れた先を待っている。そ
れに引き換え紫織はとてもゆったりと穏やかに構えていた。
「けれど、どんなに苦しくても、この出会いを私、恨んだりはいたしませんわ。あなたには感謝してお
りますのよ。恋を、させてくれたのですもの。辛い思いのほうが多かったとしても、それでも恋の甘さ
をあなたは教えてくださった。私、恋のできる女だったのですね」
片方の唇の端をわずかに上げて儚く笑う。その消えてしまいそうな姿を、真澄は胸を締め付けら
れる思いで見つめていた。まるで自分との距離を保とうとするかのように少し離れた場所に立つ彼
女の元に駆け寄って抱きしめてしまいたい。ほんの一瞬さえも愛さなかった冷酷な自分に対してこ
れほどまでに健気に切々と想いを訴える彼女を、どうして自分は愛せないのだろう。どうして自分は
マヤしか愛せないのだろう。残酷としか言えない、正直すぎる自分の心を恨めしく思ってしまう。だ
がそれでもやはりマヤしか愛せないのだ。真澄は自分が彼女に対してしてきた酷い仕打ちを心か
ら悔いた。
「さぁ、そんな顔をなさらないで。もう開放して差し上げますわ」
近づいたのは真澄ではなく、紫織のほうだった。彼女は、ひどく苦しそうに歪んだ真澄の頬をそっ
と柔らかな冷たい手で撫でながら優しく、まるで母親のような慈愛に満ちた表情で見つめた。
「あなたに心を縛られて、それでこんなに苦しいと思っていたけれど、本当に縛っていたのは私の方
でしたのね。やっとそのことに気がつきました。あなたを解き放つことだけがあなたの幸せに繋がる
のでしたら、たとえその後にどれほどの辛さが待っていたとしても、私、きっと甘んじてその辛さを受
け入れますわ。だってそれが、あなたに恋をした証ですものね」
それだけ言うと、今度は真澄の大きな両手を、そのほっそりとした滑らかな手で包み込むように
握った。
「さぁ、あの人のところへ行って差し上げて。そうでなければ、私たち、そう、私たち3人とも、みんな
不幸になってしまいますわ」
今はもう、力強いとさえ言える声で真澄を叱咤する紫織。どれほどの涙を一人きりで流し、どれほ
どの辛い時間を一人きりで重ねて、この言葉を彼女は口にするのだろう。真澄はそれを考えるとど
うしようもない切なさに身を切られるようだった。こんなにも彼女は自分を愛してくれていた。その愛
に全く気がつかなかった愚かな自分。どんなことをしてでも償いたい、謝って許しを請いたい。彼女
の心に負わせてしまった傷が癒えるまで傍で見守ってあげたいとさえ思う。だが彼女はそれを望ん
でいなのだ。返ってそれは彼女にとって残酷なことになるだろう。彼女を思いやる、と言う口実に甘
えて再び優柔不断になりそうな自分を叱り付け、一礼するとあとはもう、後ろも見ずに走り出した。
行こう。マヤの元へ。行って今まで傷つけてきたことを謝って、母親のことも謝って、なんとしてもこ
の愛を打ち明け、受け止めてもらおう。先ほど“泥沼を這いずってでも”と固く誓ったその決意が、実
はマヤの想いを勝ち取るためのものだったと今知った。どれほど辛くとも、紫織さんが自分に見せて
くれた勇気と愛を思えば、それに恥ずかしくない結果を出さなければなるまい。彼女に負けてはい
られないではないか。おれは大都芸能の速水真澄だ。きっとマヤの愛を勝ち取り、あの人の前に
立ってみせる。自分には想像もつかないほどの辛い想いを、たった一人で乗り越えた彼女が、それ
こそを、望んでいるのだから。
振り返らずに走り去る真澄を滂沱の涙で見送りながら、すっかりやせ細ってしまったその左手の、
薬指にゆるく結ばれた約束をするりと抜き取る紫織を、優しい風がそっと慰めるように撫でていっ
た。
<Fin>
※続編に「桜の下にて・・・」があります。
(B−Bエンディング担当:硝子様)
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